かんざしには嘘を、××と君には×情を
「……あ……っ」
苦痛とも快楽に耐える声とも取れる、青年の艶かしいそれが微かに聞こえた気がして、明花(ミンファ)はハッと顔を上げた。
書棚に書机、焦げ茶の脚を持つ架子床(ベッド)と見覚えるのある室内は薄暗く、そこがどこなのかを考える術までもを奪っていた。
再び、あの声が明花の耳に届く。今度こそ、明花はそれが婚約者のものだと悟る。どうしたら良いかわからずに辺りを見回したが部屋には出入口も窓もなく、声の主さえも見当たらない。
カラン、と何かが落ちる音がして振り向けば、部屋の主が大事にしているかんざしが目に入った。
銀色の本体部分の先には紅水晶の花々が咲いている。愛らしく可憐な一輪挿しは幼さの残る少女に良く似合うだろう。
主にとってそれがどれほど大事なものかは、かんざしが幾重もの布に包まれ、まるで龍神への供物のように壇上に捧げられている事からも見て取れる。
「ねぇ、なんで呂雨燕(ルゥ・ユーイェン)はあんなことをしたと思う?」
その時。頭上から舌足らずな声が純粋な疑問を投げかけた。
驚き、天地左右あらゆる方向を見回す明花をよそに、声は大きなため息を吐く。
「嫌われてるのかなぁ。……大好きなのに」
漠然と明花も疑問に思い首を傾げるが、答えは判然としない。代わりに、再び青年の苦しげな呻きが聞こえてくる。
「もし……に知られた…………もう……られな…………」
泣いている――明花が彼の表情に気付いて駆け寄ろうとした時には、既視感のあるそれは途絶えていた。
既に不思議な声の主も見当たらない。あたりは霞み、遠くでは規則正しい何かが聞こえている――
「……嬢ちゃん!」
「っふあぁっはい?! っ――」
男の呼びかけにより現へと戻った明花は、顔を上げた勢いそのままに後ろへと転げた。
雲ひとつない青空と高低のある色とりどりの瓦屋根を認めて、明花はようやく自分が荷台から転げ落ちた事に気付く。
行き交う人々は老若男女、たっぷりとした腹を抱えた商人にはじまり異国の服をまとった旅人、駆け回る子供に目的の店を探す神子や主婦と様々だ。
明花は珊瑚との面会を終え、その足で大きな布を買い、都の西南側の繁華街へと訪れていた。
「おっ、おい。大丈夫かい?!」
「あんた、大声出して何やってん……あら、お嬢ちゃん寝っ転がっちまってどうしたんだい? まさか! 落ちたんじゃ?!」
「……はい。受け身を取れたので、すみません。ありがとうございます」
尚も不安そうな眼差しを向ける商人夫妻に明花は礼を述べると起き上がり、埃を払ってロバを撫で、再び礼を重ねて夫妻と別れる。日差しを避ける体で購入したばかりの布を頭にかけ、明花は辺りを見回した。
「賑やかだなぁ」
首都中央部を南北に通る街道は北の都白麗洛(はくれいらく)や南の都朱苑(しゅえん)、各隣国へと繋がっている為、古くから交易路として栄えてきた。人通りは明花の住む東部よりもずっと多く、軽食を出す露店に土産物や掘出し物を並べる露店、占いに宿屋、質屋に両替店、雑貨屋、薬屋、酒場……と沢山の店が並んでいる。
明花はそっと視線を巡らし、目的の小さな看板を見つけて深呼吸。その二本先の角をゆっくりと曲がった。
大通りから曲がった先は路地裏と言うには明るく、繁華街と表すには質素だった。店の倉庫や小売店の商人達が住まう家の間に、ぽつぽつと小さな商店が並ぶ。
各店の地味な佇まいは大通りと異なり、何を扱う店なのか一見してはわからぬ店が多かった。
(ええと……たしか『桃華遊心堂』……あった)
目的の店を見つけて、明花はもう一度深呼吸する。
昨晩、書物によって得た知識は本日、珊瑚によって暗号でもなければ禁術の暗喩でもないと保証された。
加えてこのまま放っておけば雨燕の身の内に宿る神通力が暴走する可能性は十二分にあり、体調管理と抑圧の軽減および他の方法での諸欲求の解消が必要不可欠だろうとも。
黄家の動きから、事が印が表れる高度な仙術や龍神に関わるであろうだけに、詳細が判明するまでは本人には真相を告げられない。
それどころか欲望の抑制や心身の変化を無理に尋ねる事も、場合によっては術者が施した規定に抵触し、危険を伴う可能性があるという。
今日明日の即死の危険性こそ少ないが、状態は決して楽観視できず、印が長期に渡って残る場合は確実に命を脅かすに足り得るであろうとのことであった。
一方で明花の行動により神通力が安定すれば、彼の神通力の安定値も次第に上昇し状態が好転する可能性も高
く、悲観する必要はないとの見立てであった。
珊瑚はまた引き続き術を施した者を探ってくれるとも約束し、さらには役に立つであろう道具店の紹介までしてくれたのである。
明後日から明花と雨燕は陳家の離れで寝食を共にするようになる。
父が次期当主にと離れを用意していた事や、雨燕の性格、両家の話し合いがとんとん拍子に進んだ事などが功を期したのか。婿入りとしては、かなり早い時期での同居となった。
今日明日は準備で互いに忙しく、会話もままならないだろう。しかし共同生活が始まればいくらでも話す機会はある。
少々気が早いとは自覚しつつも、大事な雨燕の為。……と言うよりは雨燕には健康で幸せでいて欲しいという自身の願いの為に。明花は羞恥心や見栄をかなぐり捨て、こうして淫靡な道具を購入すべく店を探していた。
(『桃華遊心堂』って可愛い名前……。お店の広告だって『神通力の安定を手伝い、普段とは違った豊かな時間をご提案致します』とか『安らぐ時間をあなたに』なのに……うぅ……こんなお店があるんだ……)
じわりと高まる熱を振り払うように明花は首を振り、忍び足で店へと入った。
店内は想像よりも明るく、こざっぱりとした印象だ。
両側には棚が並び、入口近くの繊細な造りの透かし窓からは、さんさんと陽の光が差し込んでいる。甘く上品な香のかおりと、仙術式の自動演奏琴の優雅な音色が室内を満たす。
棚に並ぶ大小の木箱や壺などの使途不明の品々を除けば、品の良い雑貨店と言って差し支えない雰囲気だ。
突き当たりの机に座っていた女性は本から目をあげると、にこりと笑って会釈した。
「いらっしゃいませ。ご入用あれば遠慮なく仰って下さいね。鈴もありますので」
店が扱う品の用途を考えると鈴は配慮なのだろう。
奥へと消えそうになる女性を慌てて明花は引き留めた。
「すみません、ごっ、ご相談したい事があって……」
「はい。なんなりと」
「ええと、その……」
じわじわと顔に熱が集まる。
どのように話せば良いのだろう。
いやらしい雰囲気をかもしださないように、和やかな空気を壊さぬように話を切り出すのは至難の業。ふとすれば、昨晩得たばかりのまだ意味も良くわかっていない淫語を発してしまいそうだ。
甘いかおりは益々雨燕と昨晩の書物の内容を想起させ、明花の緊張を助長させていた。
「大丈夫ですよ。お店には老若男女、様々な方がいらっしゃいます。お嬢様のようにお若い女性の方も素敵なご婦人も。私としても真剣に取り組んでいる方にこそ、是非ご利用していただきたいのです」
「あの……だ、男性用のなんですけど……」
「はい。多数取りそろえておりますよ。適したお品をご案内する為にも、不躾ではありますが用途をお伺いしてもよろしいですか? ……」
明花は促されるまま、珊瑚から預かった言葉を借りて希望を相談する。
婚約者の不調が神通力の乱れによる事、本人にあまり自覚はないが、専門家から指摘は受けている事。婚約者としてせめて生活改善や房中術、夜の過ごし方の提案をしようと思っており、体を繋げずなくとも手伝えるように道具や薬を探している事。
専門家として珊瑚の名を出しても良いとの指示もあり、明花は呪詛や龍神、雨燕の事情関連を除いて自らの希望を伝える。
「そうですか。では、こちらなどいかがでしょうか?」
店主は話を一通り聞くと、くるりと身をひるがえして反対側の棚へと明花を導いた。
彼女が案内した先には幾つもの木箱が並ぶ。おもむろに店主はその一つを開けると、中から紫色の小さな袋を取り出した。
「……えっと……」
「こうして裏返して使うのですが……触ってみます? 展示品ですので大丈夫ですよ。こちら肌触りが良いと評判なんです」
言われるがままに明花は巾着のようなものに触れる。たしかに滑らかで手触りは良い。まるで毛並みの良い猫を触っているようだ。暖かそうなので防寒着にも良さそうである。
……が、何にどう使うのかさっぱりわからない。そして立て板に水の如く説明を施してくれる店主の話を遮り、この何の変哲もない少々歪な巾着の正体を尋ねられるような雰囲気ではない。
(珊瑚様は性的な気持ちに作用する道具がどうとか、伺っていたのだけれど……巾着? 携帯用の筆巻を包む袋にしては少し短いし……?)
「大小取り揃えております。もし検討がつかないようでしたら、少し大きめのこちらでも。あえて大きいものを選ぶ方もいらっしゃいますよ。その方が良いと仰って。それから……」
おそらく必要以上に話さずとも良いように気を遣っての対応なのだろう。店主は次々と箱を空けて質感の異なる巾着を出しては、共に使うと良いと何かの液体が入った陶器も薦めてくれた。
しかし残念ながら、どれも明花の知識では理解が及ばず、書物に描かれていたかも思い出せなかった。
もしくは描かれていたとしても絵柄の癖ゆえに実物との乖離が激しく、結びつかなかったのかもしれない。
(もしかして目的のものを薦めてくれている……のかもしれないけど、どうしよう……全くわからない。この袋もあの置物みたいなものも、壺のは薬? 何に使うんだろう? 雨燕の役に立つものなの……?)
明花は店主の説明を聞き終えると、もう少し検討したいと願い出た。ひとり落ち着いて現物を手に取れば、昨夜の記憶が掘り起こされるかもしれないと思ったからだ。
「わかりました。気になるブツ……お品が見つかりましたら、お声掛け下さいね。女同士ですもの、何も心配いりませんわ。餅は餅屋に。遠慮なく」
店主は意味ありげな視線を向けると明花の手をきゅっと握り、すぐに店の奥へと消えていった。
明花はほっと胸を撫で下ろすと布を目深に被り直し、棚の品々へと視線を移す。
収納する箱にはそれぞれ珍しい文様が入る。
(雨燕の痣みたい……)
途端、頬を主に染め眉をひそめる、艶かしい彼の姿が脳裏を過り明花は頭を振った。
(わ、私ったら! この箱のは守護や乱用を防ぐ為の仙術の印でしょう?! 魔除けや護符と同じ! それに雨燕の痣も術痕なわけで、私の頭がどうかしていて……?!)
煩悩を振り払おうと尚も頭を振り、うっかり頭を棚にぶつけそうになりながらも、明花は品々を凝視する。
付属品や展示の雰囲気から何に使用するのか必死に考え、購入予定を定めていった。
暫くして、明花の耳に蝶番が軋む微かな音が届いた。
「いらっしゃいませ。あら。……ちょっと待ってて下さいね」
明花は顔を覆う布を意味もなく直すと、膝をついて棚の下段へと視線を移す。法に触れぬとは言え、店の利用を知られたいと望む者はおらず、万が一にも知人に会ってしまった日にはお互い気まずい思いしかしないと考えたからだ。
近くを通ったからだろうか。衣擦れの音の他に、どこかで聞いたような軽やかな音が明花の耳を打った。
「……こちらで宜しかったでしょうか?」
店主の声に客は無言で是と返したのだろう。店主は声を一段とひそめ、意味深長な言葉を続ける。
「効果は抜群ですよ。……ええ、ええ。使い方さえ守っていただければなんの危険もありません……もちろん! お客様の魅力に気付き、意識していただけること間違いなしですよ」
店主の言葉を聞いて、背後の客は安堵の息をつく。続く微かな笑みから、図らずも彼女が明花とさほど変わらぬ年齢の女性であると判明した。
(結構みんなこの手のお店を利用するものなのかな……? そ、そっか……)
羞恥に熱くなる頬を抑え、ひとり納得する明花のことなど露知らず。客と店主はやり取りを続ける。
「あとこちらも……ですよ……ふふ、もちろん抜群の効果です……え? まさか! 法に触れる……品を私どもが……ここだけの話、あの翡翠様が関わってるんです……」
流れるような売り文句の中にひとつ、聞き覚えのある名が混じる。
『翡翠(ひすい)』と言えば知と和を重んじる天竜、八神の中でも珊瑚や青藍と並び、穏やかで慎み深いと言われる神である。
品行方正、やや頭が固いとの評のほか、百五十年前に他界した伴侶に身を捧げたいとの一念から、神通力が向上、安定する房中術を断ち、他修行で力を維持し続けている事で有名だ。
おそらく八神の中では一、二を争うほどこの手の店とは縁遠い存在。
その翡翠が関わっているとは、にわかには信じ難いで話である。
しかも翡翠は掟を忠実に守り、基本的に伴侶や専属の神子を除いて、直接人とは交わらない生活をしているのだ。
よって、関わっているとすれば、翡翠は翡翠でも神と同じ名を与えられた神子やその周りの者を指すのだとは理解できるが……。
(公にはされていないけれども、神子の翡翠様はご病気のはず……)
図らずも明花は神子、翡翠の命が長くない事を知っている。
翡翠の容態が急変した事で、互いの家族のみで行われた兄流星(リュウシン)と青藍との婚姻の儀が中断余儀なくされたからである。
ふとシャラン、と。軽やかな音が明花の耳に届いた。続いて、鈴の音を鳴らしたような愛らしい声が響く。
「どうか、お兄様には……お願いします」
「安心してくださいまし。お嬢様の事は誰にも。それも私の仕事ですよ」
店主の言葉に明花までほっと胸を撫で下ろす。
(知らない方だけれど、良かった。店主さんとお兄様が知り合いなのかも……私も兄様に知られたら、家の門をくぐれないし穴を掘ってでも隠れたくなる……)
「お願いします」
「ええ。上手く仲直りできると良いですね……ありがとうございました」
店主に見送られ、少女と思わしき人物は足早に店を出ていく。合わせて、扉が軋む音に軽やかな音が二度三度混じった。
明花は手元の謎の袋を眺めながら、はたと首を傾げる。
(あれ? あの人の声? どこかで聞いたような? お兄様、お兄様……どこだったかな……?)
「お客様、いかがでしょうか?」
店主の声に思考を遮られ、明花は肩を揺らした。