かんざしには嘘を、××と君には×情を
顔面蒼白で俯く義弟を前にして、雪星は短く息を吐いた。以前は雪星が使用していた陳家の一間で、机の上の木箱に視線を移して、再び義弟へと戻す。
事はあらぬ方向へと転がり始めた。
隣室では未だ白い顔の妹明花が規則正しい寝息を立てて眠っている。義姉の青藍と兄流星は雪星に急かされ、後ろ髪を引かれながらも一刻ほど前に帰宅した。
三日前の晩、明花は閨の最中に意識を失った……らしい。時が時だけに『閨の最中』とは雪星の想像でしかないが、同居したばかりの婚約者同士が布団の上で行うことを挙げるとなると多くはないので、兄に言い辛い内容の最中であったことにまず間違いはない。
真っ青な顔の雨燕が真っ白な顔の明花を背負い、母屋へと駆け込んで来たのは夜も更ける前。書き物をしていた父迪心(ディシン)は驚き、取り乱す雨燕へと駆け寄ったが、一言二言事情を聞いているうちに雨燕もまた明花を背負ったまま倒れてしまった。
雨燕の様子からも迪心は事を荒立てては凶と判断し、医師である義理の娘、青藍へと連絡。陳家当主は二人の様相、衣服の微細な乱れから原因は事前にあると見て、仙術を使って上司でもある雪星へも便りを寄越した。
翌朝、青藍の手当の甲斐もあり、明花と雨燕は相次いで目を覚ました。
何故皆が集まっているのかもわからず、事情を聞かれても戸惑い赤くなる明花に対して、雨燕は言葉を濁し、険しい表情で雪星へと物言いたげな視線を向けてくる。
症状からも思い当たる節があった雪星は頃合いを見て雨燕と二人に。雨燕は雪星の推定に近しくも驚くべき事実を述べ、重ねて検討の価値ある推論と有効であろう次策を提案し、協力を仰いできた。
そして二人が倒れてから三日後の今日。
義弟雨燕の推論は二、三の細かなものを除いて尽く当たり、雪星は次第に己が追っていた『エン』の思惑と厄介なそれをはっきりと認識せざるを得なくなったのである。
(雨燕は大丈夫なのか?)
俯いているのをいいことに、雪星はまじまじと雨燕を見た。
青藍の治療の甲斐あって元気を取り戻しつつある明花に比べ、雨燕の顔色は明らかに悪い。
眼差しは鋭く、それでいて瞳の奥は廃人の如く虚ろである。元々色白の面は今や屍人のように青白く、表情も生気を欠いていた。細身の体は柳のように頼りなく、雪星の知る義弟を構成する温和で穏やかな雰囲気も、こちらの覇気を削ぐ呑気さも一向に也を潜めている。
屍人のような雨燕だが、皮肉にもここ数日の行動に普段と大きな変わりはない。無駄なく的確。それどころかより一層、仕事ぶりに抜け目がないようにも見える。
時折零れる自嘲じみた微笑にだけは、僅かに雪星の知る彼が滲んでいるが。
(参ってるよな、これ)
別居する雪星の目から見ても明らかに雨燕は堪えている。
雨燕の事だ。大方、明花へ顔向けできないとでも思っているのだろう。昼間は雑務や梅花の護衛に奔走し、夕方からの仁円光は明花を診る青藍に話をつけて休み、代わりに夜中近くまで件の極秘裏の仕事を進めている。帰宅をしてもまともに食べず、眠りもせず。明け方には燐光府に向かう始末。
まだたった二日と言えども、既に雪星の脳裏には「死に急ぐ」との言葉が浮かぶ。
こうして義兄が気を利かして共に食事を提案しても、一向に普段の彼には戻らない。
どのような顔をして妹と言葉を交わせば良いのかわからない人形。或いは明花の視界に入ることさえ許されない存在だと信じ込む死霊。そんな幻想を抱くほど、雨燕は憔悴しきっている。
(しかしうちの明花に毒を盛るなんて……大した度胸だ)
思わず雪星は舌打ちしそうになる。
無差別か、意図的に明花を狙った行為か。後者だとしたらあれ(・・)は雨燕が睨んだ通り、今後はより一層注意を払わねばならない。
明花が意識を失った原因は極少量の毒物。仙術により改良、或いは改悪した経皮毒が雨燕の加護の術と神通力に過剰に反応してしまったからだ。
雨燕は自分が仙術を使ってしまったせいだと悔やんでいる。今もなお、もっと弱く簡素な術をかけていればと彼は言葉少なな中でも繰り返している。
しかし彼に非があると思っているのはおそらく彼自身だけだ。少なくとも雪星は雨燕が苦しむ必要などないと思わずにはいられない。
そもそもこの一度塗布しただけでは何ら効果のない毒を仕込んだ人間は、かなり邪悪な思想の持ち主だと考えられる。
――独特の甘い香りと油の特性を活かした毒は毎夜少しずつ薄い肌から浸透し、音もなく、本人の大きな自覚もなく、来る仙術と出会うまで静かにその身を蝕む。
体が弱い者や仙術を頻繁に使う者は体調を徐々に崩し使用を止めるかもしれないし、明花のように強い力を持つ人間に日常的に術を施されている者は早い時期に過反応により体調が急変するかもしれない。
しかしもしそのような事がなければ、多くの者は香油の秘められた悪意に気付かず、自らの手でその身を取り返しのつかぬ体としていく。
薬が体から抜けきらない限り、特定の仙術の影響を受けたが最後、極々自然に死に至る。それも一日足らずの間に急激に弱り、眠りにつくように死んでいく。
子の成長を願う時に、成人を祝う時に、新年を祝う時に、相手の健康や幸福を願う時に――猛毒となり、いよいよ効果を発揮するのだ。
突然の死に嘆き悲しみ、更に行き場のない気持ちの救いを求めて探った末に、直接的に殺めたのが生きて欲しいと誰よりも願っていた人間だったと知った時、人は人でいられるだろうか。考えるだけでゾッとする。
そしておそらく、相手は更なる罪を犯した。
雪星はおもむろに木箱の蓋を開け、未だ見ぬ仕組んだ相手の心の内を見ようとする。
「……知っての通り昨晩、桃華遊心堂の女将を発見した。状況から情事の間の犯行、首には幅広の紐かなにかで絞められた痕があった。可哀想に……明花と同じ毒でも盛られていたのか女将の体にも周囲にも抵抗した痕跡はほとんどない。術による印もそれらしい媒体も無し。念の為調べてるが、おそらく術の軌跡もないだろう」
有能な術士を相手取るには人を殺める術は強すぎる。悪徳方士のような術へのこだわりはなく、冷静で実利を取る犯人なのだろう。
「それからお前の睨んだ通り、店の箱入り商品には全て中身を守る為の術が施されていた。ある時期になると周囲にも術の対象が広がるように細工される……時限装置さながら、ね」
回りくどく、確実ではないがうまい方法だ。
道具を購入した者には無料で毒入りの香油を付ける。魅力が上がるなど、それらしい売り文句をつければ勝手に誤解してくれるかもしれないし、一度くらいならば試しにと使ってくれる可能性もある。
薬の多少の依存性と痺れは交わりという行為故の産物と錯覚され、体調不良も慣れぬそれがもたらした愛情の匙加減の誤りと思われる。
また術を蓋にかけ、箱本体を媒体とするという方法も興味深い。隠したい道具の箱を捨てる物は少ないし、蓋だけを捨てる等という真似をする者も中身の特性上少ないだろう。
医者にかかれば半数程度は術を受け、そうでなくともいずれは箱の術が作用し死に至る。特殊な条件下でしか害のない香油や単なる箱は目立たない。隠しておきたいような道具ならば尚更、真相は有耶無耶となる。
「……女将は知っていたんでしょうか」
「おそらく最初は知らなかったと思うな。几帳面な性格だったようだから、道具にまで期限がある事や廃棄不能な点を不審には思っただろう。ただ、殺された時も箱のからくりが何に使われているかは確信が持てなかったんじゃないか? じゃなきゃ庭に捨てた鍋の中に商品の箱を隠すなんて奇行はしない」
自身の身が危うい事も彼女は気付いていたのだろう。数回に分けて町外れの店で持ち物を処分、遠方の妹にも近く店をたたみ、都を離れると手紙で伝えている。最悪、自分が始末され、店の物が燃やされ処分されても犯人への繋がりが残るように鍋へと箱を隠した、そう雪星はみている。
「箱の放置は時限装置や伝達機能は既に知られても構わないってことだ。そりゃそうだよね。正当な理由がある合法。小さなミスがあるだけなんだから」
「既に目的の相手の手に渡っている可能性も考えられます。それに少し気になる事が」
雪星は雨燕に耳打ちされ、ううむと唸った。
「となると、明花だけが狙われたのではないと?」
雪星の問いに雨燕は頷く。
「調べてみないとわかりませんが。念のため先方には符や術を使わないよう伝え、青藍様にも診て貰いました。……まず間違いないと。心の臓があまり強くない御方だったようです。今のところご快復も順調だそうです」
「売りつけられた符は?」
「預かってきました」
そう言うと雨燕は煌びやかな装飾が施された符を懐から取り出し、雪星へと差し出した。
貴族向けの華やかな符だが効能に大差はない。障りを打ち払い、主を護る護符。至って平凡な術が施されたものだ。
雪星はひらひらと符を揺らし、光にかざした。異国の紋様が入っているが、作成場所や術者の所属を欺くため、時間稼ぎのために入れた可能性も捨てきれない。
「香油で土台を作り、符で術を発動させればいつでも人死が可能となるのか。これなら術士も道士も蓋もいらない、便利だな」
「家にも入れます。色々と使えるでしょうね」
雨燕の視点に雪星も苦笑する。悪童の名を馳せていた自分にも考えつかなかったようなことを、ぬけぬけとこの義弟は思いつく。
「もう調べがついているとでも言いそうだな?」
「あ、はい。まだ決定づけるのは早いとは思いますが……」
しかもかけた鎌にしっかり返答を返してくるのだから、雪星は内心舌を巻く。雨燕は机の上で紙を広げると、容易に読めないよう特定の箇所を欠けさせた文字を指さしていった。
「商人の見た目や背格好、年齢からめぼしい家をあげて探ったところ、ほかに四件ほど該当する家がありました。どこも症状、符の内容、店を利用していた点は一致しています。ただ、残念ながら香油を使っていたかまでは把握できませんでした」
「そうか。引き続き探るとして、他に共通点は? 例えば黄家と裏で争っている家とか……」
「黄家に関わりの深い家にも出入りしておりますが、そのような事はまだ」
雨燕の眉間に深いしわが寄った。理由は調査が難航しているからか。
(その手の話を聞き出すのは雨燕の不得意分野だからな)
「じゃあ後は俺が探っておく」
雪星は少しだけほっとしたような表情を見せる雨燕を横目に苦笑すると、箱を脇に退け、どっかりと椅子へと腰を下ろした。
「さて、本題だ。どうする?」
雪星は細工のされた箱から問題のそれを取り出す。
若草色の布には形容し難い模様の刺繍。仁円光の生徒が身につけるそれに何が刺繍されているのかは兎も角、誰が繕ったものかを雪星は嫌というほど知っていた。芳明のものであることは疑いようのない事実だった。
「ご丁寧に遺体のすぐ横に落ちていたんだ……言い逃れできないね」
「僕や明花、相手方の証言と符雀は……証拠になりませんよね」
雨燕がいくら肩を落としても、家族の証言が無実の証しになることはない。第一、現場に置いてきてしまった事に気付いた芳明がなくしたと言い張ったとの仮定も可能である以上、それらは何の意味も持たない。
「非情なことを聞くようだが、お前はどう思う? 芳明がやったと思うか?」
「まさか。僕個人の思いを目一杯差し引いても、彼が犯行に及んだとは思えません。動機もなければ状況も不自然です。罪をなすりつける犯人を装って自らを示す物を置いていくだなんて。小説でもないのですから、作為的過ぎます。それに彼の体格では女将に抵抗されたら終わりですよ。近くの置物で殴った方が安全でしょう」
「まぁ、そうだよね」
検死結果はまだ出ていないが、強力な毒物を盛られた可能性は低いとされている。おそらく明花と同様の痺れ効果のある薬や弱い睡眠薬などを盛られ、後ろから首を絞めらた。ものの数秒だったのだろう。布団の乱れと小さな首の擦過傷は見られるものの、激しく抵抗したと思われるような痕跡はなかった。
不思議なのは芳明の幘(さく)が凶器とは言い難い代物だということだ。
「撹乱目的だろうな」
「事を大きくしたいのかもしれません。その場合、疑わしい程度の方が都合が良いです」
もちろんそれも一理あるだろう。
万が一、芳明の素性が明らかになれば様々な噂がたつ。少年が、それも継承権を持たぬとは言え他国の皇子が事件に関与していただけでは済まない。深臙で育った経緯や生育環境、龍神や他国との関係性等々。醜聞で留まればまだ良いが、国際問題に発展すれば非常に厄介なこととなる。
同時に、エンの関与を疑う内部では疑念と不信が渦巻くだろう。その渦中に陳家と青藍が、当人達の意思とは裏腹に据え置かれることとなるだろうことは目に見えていた。
「芳明は子供。天鼠閣も動いている以上、漏れて欲しくないところに早々漏れるとは思えないが、俺達は外されるだろう」
「早めに聞き取りをした方が良いとは思いますが……死亡したと思われる時間に芳明が家にいたと証明できるのは家族だけですからね……」
雨燕は芳明を守る盾が居なくなる事を危惧しているのだろう。しかしそれは少し違う。
「いや、雨燕。女将が息を引き取ったのは日中だぞ? 大まかに見積もっても二日前、一昨日の昼前から日が沈む頃まで。複数の目撃者がいるからまず間違いない」
雨燕はやはり情事の最中との言葉から殺害された時刻を勘違いしていたようだ。途端、硬い表情に僅かに安堵の色が浮かぶ。
「では芳明の無実は証明できるのですね」
「それがなぁ。あの日はお前達が倒れたからシー婆が朝から来てくれたし、青藍様や兄貴もいた。昼からも仁円光の生徒や教員に当たってみれば立証できると思ってたんだが……」
「何か?」
不安げな眼差しを向けられ、雪星は肩を竦めた。
「何を警戒してるのか、あいつ口割らないんだよ」
先刻、本格的に聴取が始まる前にとそれとなく聞き出そうと試みたのだが。年頃なのか、芳明はけんもほろろな様であった。
少々の寂しさを感じつつも、雪星は雨燕へと一言掛けると芳明を呼びに行く。
明日にも取調べを受ける可能性があるとは露知らず。隣室で鼻歌交じりに寝支度をしていた芳明を雪星は手招きした。
「なんでしょうか?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
訝しげな視線を向ける芳明を部屋へと通し、雪星は場を仕切り直すようにひとつ咳払いをする。
「芳明、これに見覚えは?」
「……!」
雨燕が良かれと思い隠した布を机上へと出すと、驚嘆の息遣いが重なった。
雪星は今にも立ち上がり詰問を始めんばかりの雨燕を片手で制し、戸惑いを隠さぬ芳明を見つめる。
「私の……ですが」
「どこで見つかったか、心当たりはあるか?」
芳明は探るように交互に雪星と雨燕を見やると、何も言わずに首を横に振り俯いてしまった。
雪星は「そうか」とそれだけ告げて、就寝の挨拶でお茶を濁す。
明らかに動揺する芳明へと声をかけ寝かしつける雨燕を片目に、情報を整理始めた。
翌晩遅く。雪星は雨燕から少々風変わりな依頼を受ける。
雨燕らしからぬ非常識な時間の来訪に加えて、何も知らずに協力をして欲しいとのそれに少しばかりの心当たりはあり、雪星にとっては多少なりとも不満はあったが。一考の後、雪星は雨燕を見て心を決めた。
贔屓目を差し引いても美麗な面立ちには生気が戻り、黒曜石のような瞳からは強い意志が感じられる。凜とした佇まいと柔和な表情、そしてこちらの内側を全て知るかのような眼差しは、紛れもなく雪星の知る燐光府の呂雨燕その人。雪星は知らず、安堵に表情を緩めていた。。
こうして雪星は義弟の変化に安堵する一方で、彼の左頬と引き換えに、奇策に便乗することとなったのである。