かんざしには嘘を、××と君には×情を
仕事帰り、蕾蘭(レイラン)に誘われた明花(ミンファ)は大路沿いの茶屋へと寄っていた。
雨燕(ユーイェン)には符雀(フジャク)と呼ばれる仙術を用いた紙の鳥を経て、迎えがいらない旨を伝えてある。最近は多忙で仁円光に顔を出せていないとも聞く。都度の送迎を考え直すきっかけになればと願いながら、明花はゆっくりと茶に口をつけた。秋の実りを連想させるような香ばしく懐かしい香りが鼻腔を満たす。
明花はおもむろに視線を上げた。
向かいには明花同様に茶を楽しむ蕾蘭。
店内には様々な茶葉が並ぶ。産地、部位、品種や収穫時期による違いの他、薬草や干した果実等など。
季節ごとの茶が楽しめる席が用意されているだけでなく、客の悩みに応じた調合も受け付けているらしい。店は、命は食にありとの謹言を尊ぶ深臙の民達で盛況な様子である。
明花は店内で一番人気の茶に目を留めながら再び、先程の出来事に端を発するそれへと思考を戻した。
彼の身の置き所――。
彼とは陳家当主の父でも青藍の伴侶となった兄流星(リュウシン)でもなく、燐光府の班長雪星(シェシン)や幼い芳明(ファンミン)でもない。おそらく雨燕のことだろう。
蕾蘭と珊瑚の言葉が蘇る。
身の内に事象を秘め、耐え忍び、軽々しい行動への戒めとする術の痕跡であると推測される隠忍自重の印。
印を刻んでまで隠さねばならないもの。高難易度の印を施せる術者は限られる事。
不自然な梅花(メイファ)の護衛という仕事に、龍神に一番近しいとも言える黄家。そして龍神一族とも八神や八色玉とも異なる黄家の扱い。特異な存在である故に、現在の扱いに危機感を持つ次期当主の弟苑麗(エンレイ)。
印が残る程の術をかけたのは誰なのだろうか。雨燕を快く思っていない相手なのか、それとも何かしら事故のようなものだったのか。
珊瑚に話を預けたとは言え、雨燕の安全の為にも術者と術者の思惑は気になるところだ。
「やっぱり苑麗様が……?」
「どうしたのミンミン?」
「あ、いえ……」
蕾蘭にはまだ苑麗から受けた言葉を伝えない方が良いだろう。憶測で混乱させる訳にはいかない。なにしろ明花には旅芸人を盗賊と勘違いしたという前科がある。
「気にすることないよ。あの方はあしらわれるのを承知でやってるんだ。失敬だなんて思ってないよ」
「あ、はい。つい失礼だったかなと」
「今頃は懲りずに次の女の子にでも声をかけているさ」
冗談めかす蕾蘭の面差しにふと影が過り、にわかに二人の間に沈黙が落ちる。
思えばこの様な夕餉の時間誘われるのは初めてだ。
(もしかして、苑麗様との事を励まそうとわざわざ……?)
だとしたならば、余計な気を遣わせてしまった。苑麗という目上の者に無礼をはたらいたのではないかと、戦々恐々しているとでも勘違いされたのかもしれない。または婚約者のいる身で取られた手を振り払えなかったと、相当悔やんでいると思われた可能性も無きにしも非ずか。
「気にかけて頂き、本当にありがとうございます。あのように振る舞われるのが初めてだったので……びっくりしましたけど勉強になりました」
「初対面で呼び捨てて手を握って、他にも色々……そうそうお目にかかれない、希少生物だったね」
酷い言いようだが、蕾蘭の言には頷くところが大きいのも事実だ。自由恋愛が目新しくない昨今でも、あのような振る舞いを堂々と行う男性を見るのは初めてではあった。
「上官が聞いたら色んな意味で腰を抜かしてしまいそうですね」
「そうそう、規律違反の二律背反だ。ああでも、職権乱用の疑いも捨てきれないね」
軽口を叩く蕾蘭に、明花も苦笑混じりの笑みを零してしまう。
「ところで……珊瑚様から言伝があったんだ」
笑みから一変、蕾蘭の表情が曇った。
「ひとつは呂様の仙術について。仁円光の青藍様の元で医学を学んでいるんだよね?」
「ええ。他にも植物を中心とした生物や歴史、帝国の文字を使った数式と色々」
「優秀なんだね。じゃあ仙術を他人に施す術も学んでいると」
おそるおそる頷くが、蕾蘭の眉間にはしわが寄るばかり。彼女の表情は尚も晴れない。
「そうか。それから最近……例えば、体調不良や多忙が理由か何かで、鍛錬を怠っているような素振りはないか、と」
「珊瑚様がそのような事を?」
思わぬ質問は不安を煽る。
鍛錬の様子とは。また、それは雨燕の術に関係する事なのだろうか。それとも珊瑚の役目――神子の神通力の変化を把握し、秩序を乱さぬ輩が出ぬように管理する――に関わる事だろうか。
どちらにしろ、軽々しく個人の所感を述べて良い類いの質問ではない。特に後者は雨燕の進退に関わりかねないだろう。
「私はよく存じ上げませんが、兄ならば知っていると思います。職場が同じなので……ですが、件の事が神通力に影響するならば力が弱まったとしても当然なような……? 珊瑚様がお考えになるような深い意味があるとは」
「うーん……そうだよね。やっぱり、そこなんだよね……珊瑚様は何故、今になってそんなことを聞いたんだろう?」
そう言うと蕾蘭は顎に手を当て、黙り込んでしまった。
(蕾蘭さんもご事情を知らないんだ……? この間は珊瑚様と同様のお考えのようだったから、やっぱり珊瑚様の本来のお役目の方?)
「あの、他にもなにか仰っていたんですよね?」
「……ああ、ごめん。あとひとつはその、もしできたらそのな、今夜にでも、早めに……」
蕾蘭の声音が一段と下がり、既視感のある困惑が顔に浮かぶ。何やら言いにくい事なのだろうと覚悟を決めて、明花は蕾蘭の唇に耳を寄せた。
「仙術の基礎訓練……神通力の鍛錬を謳って、房中術を行いたいと仄めかして欲しいそうだ」
「ぼっ……じゅつを、ですか⁈」
賑わい続ける店の片隅で、思わず言葉に出すには憚れるそれが口をつく。
客は誰も気付かない。気付かなくて心底良かったと思う。
房中術とは深臙国始め、神通力を用いた仙術が盛んな近隣諸国では有名な鍛錬の一種。『月と太陽が交わるところに調和あり、安寧と革新、命の流転に触れし術』――つまるところ男女の性交の術を指す。
たしかに先日、雨燕との交わりを健康を取り戻す一方法として提案されはした。それに準ずる行為に役立つ店を紹介して貰い、試みようともした。
しかし男女のそれは、あくまで幾つもある方法の内の一つとして暗に示されただけであって、具体的に、しかも時期まで指定されて薦められてはいなかった……ように思う。
(雨燕の相談に乗ったり、生活環境を整えて神通力の安定を図るのが目的のはずでは⁇ それとも何か事情が変わって……?!)
一夜で情報が集まり、方針が変更となった可能性は捨てきれない。
「呂様の反応を見たいだけだそうで、実際行う必要はないし、報告も簡易的な物で構わないらしんだが、どうしてもと引かな……んん、でもなんだ、その。呂様も困惑なされるだろう。無理しなくて良い」
蕾蘭は「どうせ出来心だ、昨日は寒かったからなにか悪い夢でも見て試そうと思われたんだろう。無視して良いよ」と付け足すが、八色玉の夢見が重要な意味を持つだけに説得力はない。
「わ、わかりました……やってみます」
明花は声を抑えて決意を表明した。顔はまだ、熱い。
「本当に良いんだよ。きっと印の様子を知りたいだけなんだ。あの方は人を揶揄うのが趣味なんだ」
「ですが、この様な時に戯れる方でもないはずです。何かしらの言葉が術に呼応する場合もあると聞きました。腹は昨日括りましたから大丈夫です」
明花は力強く頷く。自ら伝えておきながら、尚も心配する蕾蘭には感謝しかない。
「なら良いけれども……伝えた私が言うのもおかしな話だけど、どうにも今回の事は珊瑚様に任せておいた方が良い気がしてきてね」
「でも、雨燕の体は……? なにか特別な方に診てもらった方が良いという事ですか?」
蕾蘭は大きく首を振って、
「いやいや、その必要があるなら伝えてくる人だよ、あの人は。そうじゃなくて珊瑚様がああ仰ってる限り、明花が呂様を思って健康管理をしたり環境を整えたりする事に意味はあるんだ。黄家が噛んでもいそうだ。だけれどもっと根本の所を見誤ってた気がしてきてね……」
まるで自らに言い聞かせるように呟くと、再び考え込んでしまった。
(関わらない方が良いのは身の危険があるということ? 雨燕は大丈夫なの……? やっぱりなにか良くない事に巻き込まれて、それもまだ全く終わってないんじゃ……)
明花は楽観的に捉えすぎていたのかもしれない。
体調管理に気を使いながら珊瑚の指示に従っていれば、やがて万事解決。黄家の動きも単なる派閥争いの一環、彼らによる極々些細な布石。時間経過や媒体の解析により雨燕は完全に術から解き放たれ、術者の意図も良きにしろ悪しきにしろ自然と明かされるだろうと思っていた。
(私、なんて暢気だったんだろう……きちんと確かめずに、漠然と……)
明花は拳を握りしめる。
仙術の深淵を垣間見ながらもこのままのんびりと構えたが故に万が一雨燕を亡くすなどすれば、明花は後悔で生きていけない。
「蕾蘭さん、良かったら私にも蕾蘭さんの推測を、雨燕にかけられた術の事を教えて下さい!」
「え、話聞いてた⁈ この件からは手を」
「神子であり市民である誓鳥府の蕾蘭さんが私から話を聞き、共に珊瑚様にお会いして推測した事なんですよね? ならば現状私が聞いてもなんら問題はないはずです」
明花が得られるのは、蕾蘭という同じ立場に立った一人の女性の推測に過ぎない――そんなこじつけにも近い説得だったが、一歩も引かぬ明花に思うところがあったのだろう。
蕾蘭は大きなため息ごと茶を飲み込むと「そういう事かぁ」と謎の言葉を零し、もう一度深く息を吐いた。
「わかったよ。何から聞きたいの?」
「まずは術を。やはり雨燕は何かを外に漏らさないように、口止めされたと考えて良いのですか?」
明花の問いに蕾蘭は曖昧に首を振る。
「それはちょっと違うように思う。印が明花の言う通りの形ならば、行動制御を伴う秘匿の術をかけられたのは十中八九間違いない。でも、口止めだったのかはわからない」
「それは……?」
意味を図りかね首を傾げると、蕾蘭は困ったように美しい眉を下げた。
「印からわかるのは術のあらかたの効果だけなんだよ。だからね……たとえば私に饅頭を勧めたい明花に『勤務中に蕾蘭に|饅頭《まんじゅう》の話をしてはいけない』という行動の制限と秘匿の術を、上官がかけたとしよう。上官が減量中で饅頭の話を聞きたくないだけなのか、職場の外で饅頭の話をさせる為、つまり外勤の時に饅頭の話をさせて饅頭を土産に買わせたいのか。それとも饅頭の美味さを隠しておきたいのかはわからない」
「なるほど。秘匿そのものが目的なのか、それに伴う行動を制限させたいのか、何かを誘発させたいのかはわからない。だから口止めだったとは言いきれないんですね」
蕾蘭は腕組みをしながらこくりと頷き、肯定の意を表す。
「明花も知っての通り、術は時、場、人、物、とにかく条件を細かく指定した方が範囲の関係で簡単だ。人心を操るならば、しかも相手が燐光府の官吏ならば防御されないようになるべく簡易にするだろうし。術がわかったとして相手の目的となると……一旦置いておく方が良いだろう」
術者の目的は多様に考えられる。蕾蘭の言う通り、情報が少ない現時点では保留との形で含みを持たせて考えるのが良いのは妥当だ。
「では黄家の方々が……」
「明花。明言は避けた方が無難だ」
かぶせる蕾蘭に浮かぶのは苦笑にも似た曖昧な笑み。失言を未然に防いでくれたのだと感謝する一方で、明花は自身の的が蕾蘭と大きく外れていない事を知る。
やはり蕾蘭も黄家が無関係だとは思っていないのだ。明花は背筋を正しながらも、引かない姿勢を眼差しに込めて、扱いの難しい話の先を促した。
「……術者はそう多くないからね。だから、最初は呂様を取り込もうとしたあの坊ちゃまがうっかり龍神様の秘密でも漏らして金に物を言わせたとか、或いはミンミンとの同居に備えて呂様が誰かに頼んだのか……」
「えっ⁈」
思いも寄らぬ推量に目を丸くすると、蕾蘭は僅かに頬を染め、益々困ったように笑う。
「ああ、悪事を秘匿したくてだとは思ってないよ。結婚で生活が一変するんだ。関わっている案件が極秘案件で、他から釘を刺された末の致し方ない処置かもしれない。新婚生活の不安からかもしれないし。結果的に術の影響で大きく神通力が乱れて、あのような行動に走ったとしても……って。でも、その考えは安直すぎたなと今は思ってる」
蕾蘭は一息つくと、当初の自ら立てた推測がいかに非現実的か、不自然な点が多いかを伝えていく。
まず、苑麗が意図したことであれば、もっと短絡的な方法を選ぶであろう。或いは逆手に取って利用する道を考える。
それは彼の性格や術での秘匿にそれほど利点がない事に起因する。国家機密ならば単に雨燕に命じて口止めするか、早々に始末してしまえば良い話だ。悪事ならば始末一択。殺して川に捨てずとも術者に依頼する金を、雨燕を僻地に飛ばす賄賂に変えれば済む。
彼ほどの立場の人間が、心を操る術を会得しているような手練の術者に直接接触すれば龍神や八色玉に気付かれる可能性は高くなる。術者が八神や八色玉(身内)であっても、八神や八色玉と同等の力を有する者であっても後々面倒しかない。わざわざ媒体を用意する手間もかかる。
現時点では彼が企てたとは考え難い。
では雨燕はどうだろうか。
彼の場合、甘んじて受けた術ならばわざわざ口外もしない。媒体を傍に置く事も難なくできるだろう。
ならば発端は?
仕事の関係で術を受けた可能性はある。
しかし一方で、術による体調不良を上司である雪星に隠す理由はない。雪星も術を望んだ相手方も、守らねばならぬ情報であればこそ雨燕の変化には気を遣うはず。雨燕側の報告の義務もあろう。
何より、明花を溺愛する雪星が術による妹婿の体調不良を放っておく謂れもない。
では雨燕が自ら多額の金を払って術者を雇ったのか?
これについては術への期待も価値も、身体的苦痛に対する忌避感も個人差に依るとしか言いようがなく、否定も肯定もできない。しかも体調不良を自身で解決しようとした理由――もう一度術者を雇うほど金がなかった――にも説明がつく。しかし。
「珊瑚様の【鍛錬を怠っているか】が気になる。ミンミンも知ってるでしょう? 早く元気になりたいなら鍛錬を続けて神通力の総量を維持すべきなんだ。安定と回復は当人の能力と神通力の保有量に密接に関わっている。風邪を引いた時こそ体力が落ちないようしっかり食べた方が良いように、神通力が不安定な時は静的な鍛錬を行った方が良い。気鬱や怪我で全く動けないほど具合が悪くない限りは、ね」
蕾蘭の言う通り、それらは仙術や神通力の基本。神子の初等教育で習う基礎中の基礎だ。
雨燕が知らぬはずはない。怠るとすれば相応の理由か、明花の知らぬ不調が内在するに違いない。
「ただ、呂様が個人的に誰かに頼んだとは考えにくい。珊瑚様が調べられないとは思えないからね。だから鍛錬云々が真実でなくとも、最初の推測は外れているんじゃないかと。振り出しに戻る、だ」
「そんな……じゃあ一体」
思わず零れた嘆息に蕾蘭も苦笑する。
「ミンミン、誰がどうしてを探るのも一手だけれど、望むのは呂様の健康だ。この辺りに……」
「あと一つ! ええと、そうだ! 例のかんざしの購入場所かもしれないお店を聞いたんです」
蕾蘭の優しさを感じつつも、ここで話を終わらす訳にはいかない。明花は勢い余って蕾蘭の腕を強く掴んだ。
「ごめんよ。ミンミンのその素敵なかんざしを購入した店と例のかんざしを購入した店が一致するとは限らない。それに珊瑚様も調べているはず」
ところが。
やんわりと、しかし抗えぬ確かな力で蕾蘭は明花の手を解いた。
「え……」
彼女の人知れぬ力強さに、己の失態も提案の拒絶も忘れ、明花は面食らう。
多少の剛腕――力自慢大会でうっかり優勝してしまう位の幼女であった――だと自覚していた故に、いなされた事実を受け止めきれなかったのだ。
「駄目だよ、明花。心配で調べたくて仕方がないのはわかる。でもね、この世の中には理屈では説明し難いものも触れない方が幸せに暮らせるものも存在するんだ」
敢えて触れる必要などないのだと、蕾蘭は瞳を伏せて諭す。妙な説得力は誓鳥府の誰もが知らぬ彼女の過去にまつわるものか。整った横顔に落ちる影は美しくも陰鬱だった。
「さて。珊瑚様の伝言は伝えたからね。呂様も首を長くしてミンミンの帰りを待っているだろう」
一変、にこりと微笑む蕾蘭に隙はない。次の言葉を探しているうちに彼女は店員に土産用の茶を頼み、戸惑う明花へと二人分の茶を渡すと、律儀にも明花の自宅近くまでの送迎を申し出た。
「じゃあね。くれぐれも、危ないことはしてはいけないよ? 私にも責任がある」
別れ際、おどけつつも彼女は釘を刺し、提灯の灯りが並ぶ大通りへと消えていく。
彼女の言い分は一理ある、或いは正論なのだろう。珊瑚に任せておけば万事安全、明花にできる事と言えば、変わらず印の観察や環境の整備、健康促進を目的とした珊瑚の言伝にあるものくらいだ。
(でも……雨燕はそれで、本当に大丈夫なの……?)
暗くなり始めた空には淡い色の月が浮かぶ。おそらく今夜も暗闇の中で煌々と輝く月が望めるであろう。
あの日も月明かりの美しい夜だった。
雨燕から気持ちを打ち明けられた日も、茶を望まれた日も、初めて手を取られ熱っぽい瞳で見つめられた日も。
まるで何か超然的な存在にふわりふわりと導かれるままに、雨燕と二人、浮世とこの世の境を漂っていたのではないかとさえ思えてきた。
夜風がかんざしの下がりを揺らし、ひやりと首筋を撫でていく。
このまま消えてしまったりしないだろうか。まとわりつく荒唐無稽な不安は拭えない。
路地の砂利を踏む音に交じって、耳の奥にこびりつく苑麗の言葉が木霊する。
(身の置き所……苑麗様に確かめないと)
彼は何かを知っている。或いは何かを握っているだけに、より満たそうと必死に探っているのだ。そう思えてならない。
瞳をあげると、目と鼻の先に陳家の母屋の屋根が見えた。そしてそこに蹲り、仄かな灯りを伴って蠢く何かに刮目する。
「……芳明?」
離れの裏、夕闇に溶け込む木立の傍に少年の小さな背を見つけて、明花は思わずその名を呟いた。
「ね、姉様。今お帰りでしたか」
名を呼ばれ、ハッとしたように振り向いた芳明の顔に歓迎の色は見られなかった。いつぞやの愛らしい素振りはどこへやら。仙術で点した灯りを素早く提灯へと移し、芳明は明後日の方向を眺めながら、早口でその場にいた理由と正当性を話し始める。
話を聞けば、要は婆やの目を盗み、こっそり抜け出してきたらしい。紅潮する頬とぎこちない仕草は彼の心境を手に取るように表していた。
「父様が心配なさるわ。こんな所で術まで使って……それとも、なにか理由があるの?」
未だ姉よりは低い背丈の芳明に合わせて明花は屈む。大きな瞳は逃げるように逸らされたが、すぐに恐る恐るといった風に明花の瞳を見上げた。
「怒りませんか?」
「場合によっては叱ります。ですが……姉様は芳明のことが大好きなの。いつだって芳明には笑って過ごして欲しいし、困っているなら力になりたいと思ってるわ」
ゆっくりと、思いが伝わるようにと明花は答える。
明花は母ではない。そしてこの先も芳明とは周りの姉弟と同じ関係にはなれないだろう。
それでも芳明は大事な弟で家族だ。約束を破り家を抜け出した理由を、しょぼくれている理由を聞き出し、出来うる限り手を貸したいと思ってしまうくらいには、大切な存在なのである。
「……なくしてしまったのです。姉様の刺繍を」
ぽつりと、打ち明けられた事実に明花は目を瞬かせた。同時に益々芳明の頭が垂れる。
「刺繍って……」
「仲間の証です。姉様が作ってくれた」
その言葉でようやく明花は彼が何を指していたのかを知る。
仁円光の新入生が|幘《さく》や髪に結わえ付ける、あの若葉色の布である。既製品に下手くそな刺繍を施しただけのそれは、弟にとっては唯一無二の矜持の証、姉からの贈り物とも感じていてくれたらしい。
(芳明……)
「ならば明日、明るくなってから一緒に探しましょう。私も手伝うわ」
「姉様……ありがとう。はぁ……今日の僕はなにもかもダメです」
「どうしたの? そうだ、美味しいお茶を買ってきたの。中で飲みながらお話でもしましょう」
すっかり打ちしおれた芳明の背を押す。今朝方まで芳明に合わせて踊っていた布はなく、代わりに細かな草や笹の葉が無数についてる。懸命に探していた弟を見て、子犬を思い出してしまった事は胸に秘めておこう。
「姉様、御札ってどの程度効果があるんでしょうか」
ふと、中庭の真ん中で立ち止まり、前門を振り返りながら芳明は呟いた。
御札とはおそらく神通力を込めた符の事だ。加護ならば護符、他の術ならば術符や呪符と呼んだり、仙術以外の符と区別して霊符と呼ぶ者もある。
効果は多種多様。例えば、雨燕との連絡に使用している符雀などには目的と自立機能が術によって定められ施されている。他にも深臙国では様々な用途の符や符を用いた道具が売り買いされおり、比較的身近なものと言える。
しかし、またどうして芳明はその様な事を聞くのだろうか。
「御札? 仕様にもよるけれど」
「そうですか。ならやっぱり僕はダメです。御札なんて気休めだと、先輩に適当な事を言ってしまいました。先輩の気持ちも考えずに、あやしいだなんて……」
詳細は把握できないが、どうやら先日の先輩絡みらしい。余程衝撃が大きかったのであろう。芳明はその場にしゃがみ込む。
子供であっても当事者同士が話し合う方が良いとは思えど、場合によっては多少の後押しも必要だろう。
「芳明。過ちて改めざるを……とあるように、間違えてしまったならば謝るのが一歩目だと。姉様は思いますよ」
目線を合わせるように屈み、明花は慎重に言葉を選ぶ。至らぬ自分の進言が芳明の阻害にならぬよう。部外者の励ましが彼と先輩の孤独に繋がらぬよう。
「許す許さぬは先輩のものです……ですが、芳明の気持ちが届くよう祈ってるわ」
「はい……」
俯く芳明が何を考えているのかは明花にもわからない。
しかし事が落ち着いた後にでも一度、彼や相手方の家族に詫びと礼を伝えた方が良いかもしれない。こんなにも芳明が懐いているのだ。先輩はかなり面倒見の良い人間だと伺い知れる。また、想像以上に迷惑をかけてしまっている可能性は十二分にあった。
「……姉様! やっぱり今謝ってきます!」
「⁈ ま、待って!」
明花は走り出そうとする芳明の前を塞いだ。やはりこの姉にしてこの弟ありか。
芳明は困惑の交じる不満げな眼差しで明花を見上げる。
「善は急げと教わりました!」
「礼を尽くせとも習ったはずです。夜も遅いですから明日にしましょう」
こんな夜分に約束もなく他家へと押しかけるなど、迷惑極まりない行為でしかない。
約束はできないので伝えられはしないが、あまりにも不安なようならば帰宅した雨燕に頼み符雀の使用を頼み、先方にまずは手紙で非礼を詫びても良い。
早合点は損である。身を以て感じているだけに、明花は芳明に二の舞を演じて欲しくなかったのだ。
ところが。
「でも姉様。それだと間に合いません」
意外にも芳明は引かなかった。
「間に合わない?」
「ええ。お医者様を薦めてしまったんです。御札の方が治るかもしれないのに、先輩の生活が苦しくなったら僕のせいです」
「え?」
芳明の言から見えてきた話に明花は眉をひそめる。
「芳明。詳しく教えてくれる? 御札って魔除けや願掛けのものの方?」
「はい。先輩の許嫁の方の体が最近あまり良くなくて、元々心臓が悪かったらしいんですけど、最近は朝から体が動かせない日があるんだそうです。でも不思議なことに何日かたつと元気になって外にも出られるのですよね。それで、次の日にはまたすぐに体が痺れてくる。どうにもへんてこなんで、憑き物なんじゃないかって先輩は心配されて、相談した道士から高い御札をたっくさん買ったんです。どこに貼るのかわからないくらい。だから僕、お医者様に見せてから買えば良いのにって、つい」
てっきり灯りや暖を取る符や虫を防ぐ符など、道具としての符の話だとばかり思い込んでいたのだが、話を聞くに今回ばかりは芳明の意見もあながち外れていないのではないだろうか。
それに神子ではなく道士であるのも不思議である。
深臙国内で仙術を扱う者は主に神子。神子ではない者は仙術以外を扱う者も含む術士と呼ぶ。
道士や方士は仙術を扱う者という意味では同義だが、龍神以外の加護を受ける幾つかの近隣国での呼び名なのだ。
また道士と方士は目的や立場が異なり、道士の多くの流派は仙人を目指して厳しい修行や鍛錬を重ねていく。格式高い道士達が高額な符を貴族階級に売り歩くものだろうか。
(逆に格式高いから力のある方も多くて、受け入れられてもいるのかも? ……ううん、芳明の話だけではわからないし、わかったとしてもそれは先輩と許嫁の方、それにご家族が決める事)
芳明は落ち着かぬ様子で明花の答えを今か今かと待っている。
「そうね……お医者様については症状が楽になるお薬を貰えるかもしれないから、このままにしておいても良いんじゃないかしら? 芳明は明日、先輩の気持ちを尊重せずに一方的に意見したことを謝りましょう」
兄に相談し、少し調べて貰った方が良いかもしれない。必要ならば医学を心得る青藍にもさりげなく。もし明花のお節介や取り越し苦労で終わるかもしれないが、先輩の購入した符に効力があり、婚約者の体調不良も一過性のものならば一番である。
「雨燕兄様まだかなぁ。符雀を借りられたら、先輩にお手紙を書こうと思って。兄様なら許してくれると思うんです」
「……そうね」
明花は苦笑する。雨燕に頼ろうと思っていたところまで兄妹同じだとは。少々反省し見直さねばならないかもしれない。
血の繋がりよりも環境の方が人格形成や思考回路に影響するのだろうか? ふと浮かんだ考えを明花は振り払う。
(たった一例では証明のしようがないわ)
「僕も早く符を使えるようになりたいです」
「いずれ。使えるようになるわ」
いつしか来る日に思いを馳せながら、明花は月を見上げる。
「あ、兄様! 雨燕兄様‼」
「雨燕」
「ただいま」
駆け寄る芳明に雨燕は微笑む。
滲む月光はまるで明花の世界と二人が在る世界とを隔ているようだ。
(感傷的になるなんて。雨燕のこと……ううん。婚前の不安感かなぁ)
本日二度目の奇妙な感覚はこの婚姻にまつわる諸々の不安と、姉よりも母に近しい義弟(ファンミン)との関係性に依るものだろう。明花は眦をそっと拭うと、雨燕へと迎えの挨拶を伝える。
数時間後を思い、じわりと熱くなった耳を隠すように、明花は夜風にたなびく髪を耳へとかけた。