missing tragedy

かんざしには嘘を、××と君には×情を

『虎穴に入らずんば』

 足が動かない。聞いてはいけないと理解しつつも、明花の思考は何かでぐちゃぐちゃに塗り潰され、体は糸が切れたように動かなかった。

 『ひとの恋心を弄ぶ』――とは。その言葉が表すのに最もあり得そうな例は、明花の知る雨燕からは最も縁遠いように思える。
 しかし、乙女の悲痛な叫びと宥めるような煮え切らないとも表現できよう男の声は、よくある痴情のもつれを連想させるに十二分の効力を持っていた。

 呼吸が苦しい。なにかの間違いだと信じたい。
 雨燕が気休めの言葉を告げたとは信じたくなかった。

 一方で、明花は己の内に眠る醜く浅はかな感情にも気付いてしまった。
(わ、私……)

 ぎゅっと唇を噛んだ明花の耳にさざれ石の鳴き声が届く。まるで逃亡を許さぬとでも言わんばかりの無情な音。
 自分は雨燕の幸せを一番に願っていたはずだ。何かしら誤りがあったとわかった時には身を引こうとまで覚悟し、懸命に動いていたつもりであった。

 しゃらしゃら、しゃらしゃらと、さざれ石の声はそれを嘲笑うかの如く耳を打つ。

 一体いつから彼に好かれているのが当たり前だと、雨燕からの特別な感情を一身に受けているのは後にも先にも自分だけだと自惚れていたのか。
 あの夜、彼が切なげな眼差しで見つめ、抱き締めていたかんざしも、思えば年下の乙女に贈るよう愛らしい色と造りだ。ちょうど一、二年前の黄梅花ならば、よく似合ったであろう。
 衝撃、嫉妬、落胆、悲哀、自己嫌悪――この心の臓を止めてしまいかねぬ気持ちは一体どれに属すのか。

 一息、間を置いて。明花の答えが出ぬままに、感情を押し殺したような雨燕の声が響いた。

「このような事態になった事については謝ります。僕の力不足でした。ですが、仲を取り持つよう約束した覚えはございません」

 雨燕の強く真っ直ぐな眼差しが見えるような凜とした、背筋が伸びるような清々しい声が続き、明花は目を見張る。
(あれ……? 仲を取り持つ、よう……??)

 気の所為だろうか。雨燕の物言いは、まるで雨燕以外の二人の話をしているよう。
 己への誰かの気持ちを知りながら、不誠実な振る舞いを繰り返した訳ではなく、他者同士の問題に余計な首を突っ込んだように明花には聞こえたのだ。
 思わず明花は物理的に首を捻る。しかし当然ながら変わったのは視界の角度のみ。

「梅花様のお心は理解して……です。ですが、……いたずらにお二人の仲を……それよりもどうか今は……」
「わかってるわ。わかってるわ……私のせいだって……」

 尚も雨燕と梅花は言い争っている。否、梅花だけが一方的に憤慨し、すすり泣いているようであったが、その内容は風の影響から聞き取れない部分も多かった。

 罪悪感に悩みながらも、明花は引き寄せられるように二歩三歩。そのまま物陰から雨燕たちを覗いてしまう。

 裏の竹藪には茜と山吹の衣を纏った梅花と、登庁のため群青の官服に身を包んだ雨燕――間には紫紺の衣を羽織る初老の小柄な女性。風向きの関係か、はたまた主人を尊び、大気に溶け込む術をも心得ているのか。そこには梅花の側仕えらしき人物を含めた三人が立っていた。

「雨燕兄様に何がわかりましょう? 私は十五……恥を忍んであのような場所に入らなければならな……破廉恥な手に出なければ意識さえして貰え……。それが……だから……」

 断片的な会話を繋ぎ合わせるに、梅花は意中の相手の目に留まろうと必死に努力し、時には無茶な行動に出ていたようだ。
 また、顔見知りの雨燕にも手を貸すように迫り、快諾してくれたものと宛にしていた節が読み取れる。
 雨燕は雨燕で寝耳に水といった風。落ち着いた声音には驚愕と困惑が入り交じる。

(まだ十五歳なのに……そんなに慕っている方がいるんだ……)
 事情がわかった途端、明花は梅花が心配になってきた。
 梅花は今もすすり泣きながら必死に何かを訴える。悲痛な叫びにも似た声は、内容はわからずとも聞いていて胸が痛む。
 おそらく雨燕も幼さ故の暴走、彼女にとっては必死の訴えと気付いているから、困り顔で付かず離れずの対応をしているのであろう。

(ああぁ……どうしよう、ええと手巾(はんかち)あったかな……)
 若くして幼き芳明の面倒を見てきた明花だ。年下の涙とおねだり、相談には滅法弱い節があった。
 右往左往、一時前までモヤモヤとしていたことも忘れ、今すぐ駆け寄り手巾を差し出そうかと幾度も悩み、我を忘れてしまいそうになる。

「……お願いです、梅花様……守りたいのです……なるでしょう。どうか……を苑麗様にご紹介願えま……」

 不意に雨燕が両膝をついた。同時に風向きが変わり、しゃらしゃらとさざれ石が鳴く。

 俯く彼の表情は見えないが、断片的に聞こえた会話をつなぎ合わせる限り、苑麗への引き合わせを懇願しているようだ。
 雨燕と苑麗が顔見知りとなると、引き合わせたい相手は燐光府の協力者。或いは『恩を売る』との言葉から推察するに、苑麗にとっても事件解決にとっても有益で、内情を知る重要人物であろう。

「随分とお優しいのですね……私を捨て置いて今度は若いご令嬢を苑麗お兄様に……」
「梅花様、なにか……お願いです。これは……」
 雨燕の振る舞いに侮蔑を滲ませていた梅花だったが、彼の必死の説明に徐々に態度も軟化していく。

「……っ先に言って……じゃない……兄様ったら……!」
 そのうち彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔を浮かべ、遠慮という言葉を知らぬように雨燕の背を二度三度叩き始めた。

(照れ隠し……? なの……?? い、痛そう……雨燕、大丈夫……??)
 盗み見ている者としても、昨晩(愛情を持ってしてとは言え)同衾した雨燕を締め上げた身としても、棚に上げているとの批判は尤もだが。だからこそ余計に雨燕の背中が心配である。雨燕の病み上がりの体に鞭を打ち続ければ、通常時よりも容易に折れてしまう気がしてならない。
 幸いにも明花があれこれと勝手に心配しているうちに梅花の不安は消え、談合もまとまったようだ。

 突如、梅花が身を翻し母屋へと繋がる道を戻り始めたため、逃げるように明花も道を引き返す。
 未だ心音が速いのは歩いているからだろうか。それとも場を離れることで冷静になり、盗み見たことに対する罪悪感か芽生えてきたか。はたまた――。

 胸の奥が軋む。
(私あの時、不確かなことなのに、まるで自分の不安に沿うように雨燕たちのことを……)

 視線を落とした先の地面は、朝方のにわか雨で湿っていた。

 由緒正しき黄家の愛娘と優秀な若手官吏。なんて似合いの二人なのだろうと感じてしまったのは事実であり、自分は部外者に過ぎぬのだと嫉妬し雨燕を疑ってしまったのも認めなければならぬことであった。

(私、すごく我が儘になってしまってる……ううん。最初からそうだったかも……)

 誤解だとわかったから良いという問題ではないだろう。
 無知と無自覚は身を滅ぼすと。戒めを兼ねてとの前置きから説いてくれたのは、兄妹の中で一番優秀で明花と性格が似ている兄の流星だ。
 今後はより一層気を付け、己を律していかなければと、明花は悶々としながら歩みを進める。

 そうして東側の母屋の角を曲がった瞬間、明花は出会い頭に何かにぶつかった。
 ふわりと届いたのは茉莉花の香り。さざれ石の軽やかな音と甘く華やかな香りに既視感を認める間もなく、明花は地面へと吸い込まれるが如くよろめくそれを受け止める。やにわに、驚きに丸くなる黒の瞳と目があった。
「申し訳ありま……っ」
 雪のように白く滑らかな肌に桜色の唇、匂い立つような愛らしさ。重なる既視感は埋没した記憶を引き上げる。

(……あの時の!)
 茜と山吹の衣に紅水晶のさざれ石がついた華やかなかんざし。
 腕の中の少女の出で立ちは、つい先程雨燕が対峙していた人物、黄家の梅花その人。
 加えて、おそらくまず間違いなく、彼女は珊瑚と初めて会った日に近くで出会った美少女であり、桃華遊心堂で見かけた乙女であった。


 雨燕が屋敷を離れ、すずなる木の実と黄金色の穂を霧雨が湿らして数日。
 都の西北郊外、川沿いの船小屋では二つの影が額を合わせていた。

 天窓から差し込む月光は人影と土埃厚い板切れや縄、折れた櫂などの雑具を白く照らす。

 人影のひとりは黄苑麗。普段の自信に満ち、爛々と輝いていた眼差しはなく、女性を色めき立たせる美しい面差しには緊張が張り付いている。

 対して、隣に佇み俯くは錦から表れたような可憐な乙女。
 薄化粧が施された首筋は淡雪のように白く、小さな顔をさらに隠す黒髪は絹糸の如く艶やかで美しい。黒曜石のような瞳を縁取るまつ毛は長く、非の打ち所のない美しい鼻筋といい、淡い紅を引いた唇といい、神の采配だと思わずにはいられぬ容姿であった。

 淡い藤色と濃紺の着物に五弁の花を象った桃色基調のかんざしという、今ひとつ形容しがたい組み合わせも、苑麗とさほど変わらぬ長身痩躯も、乙女にかかれば新たな美の知見となるようだ。
 美少女たらしめないものなど、何一つない――もしこの場に誰かがいたならば、乙女が口を開いてからも同様の感想を抱いたに違いない。

「しかし驚いたよ。君の能力。仙術も立ち回りも身のこなしも」
「ありがとうございます」

 乙女の淑やかな微笑は、ますます苑麗の気を良くしたようである。彼は自身の置かれている立場も忘れ、流れるような所作で口説きにかかる。

「もし龍神様の気が変わったら私が私のところへ来ないかい? お声掛けよりは格が下がるだろうけれど、君と家族の面倒を見るくらいの甲斐性は私にもあるつもりだよ」
「まあ。苑麗様、それはあのお方がお決めになることですわ。|私《わたくし》にはとても……」
「そうか。私なら君の工房を持つこともできるんだけどね。残念だ。ところで……」

 小屋の扉が開いて、苑麗は口を噤んだ。

 藤鼠の着物を着た大柄な男に続いて、頭から足先までを黒衣に包んだ珍妙な格好の者が狭い小屋へと入ってくる。
 藤鼠の衣は一見すると北の都、白麗洛(はくれいらく)以北の民が好む装い、黒衣の者は西端諸国の魔術師の装いにそれぞれ似通っているが、それがある種の偽装と暗喩であることを乙女は理解していた。

 乙女の想定よりも少ない四人という人数で話を進めるかと思いきや、相手方の用心深さはさらに予想を越えていたようだ。
 黒衣の人間が目配せすると、藤鼠の男は苑麗と乙女を値踏みするかの如くちらりと見やり口元を歪め、すぐに小屋の外へと出て行ってしまった。

「用意できたんだな」
 嘲笑うかのような物言いに苑麗も頬を引きつらせる。
 たとえ脅されたとしても、彼は誇り高き龍神が最も信頼を置くと言われている黄家の人間だ。侮蔑に今にも掴みかかるのではなかろうかと乙女はハラハラしたが、多少のこらえ性はあったらしい。

「どうにかね。そちらの条件を聞こうじゃないか」
 苑麗は木箱を薦め、自身もどっかりと腰を下ろした。
「その前に」

 一言、相手はさっと手を前に出すと掌を返す。瞬間、まるで隠し持っていた玉を取り出した曲芸師のように掌の上に青白い光の玉が現れた。

「口外無用との約束をしないことには」
 黒衣の下で唇が歪み、抜け目ない眼差しが苑麗と隣の乙女を交互に見やる。
 一族の中では凡庸な能力と絵に描いたような放蕩ぶりは物笑いの種となりやすい苑麗ではあるが、決して神子としての素養がないわけではない。そして隣りの乙女もまた――そのことを相手は熟知しているのだろう。行おうとしている術の説明もなければ、要求に従うと確信し余計なことを口にもしない。

「もちろん。さあ陳雪鷹(チェン・シェイン)」

 苑麗は雪鷹と呼んだ乙女へと目配せする。二人は黒衣の術士へと己の手を差し出した。

 雨燕が婚約者である明花に決して知られたくない隠密行動を図り、敵陣で奮闘していた頃のこと。

「姉様、助けてください!」
「っ⁈ ど、どうしたの、芳明⁈」
「蜂です‼ おっきなやつ‼ 助けてください!」

 貴重な秋雨の晴れ間、事件解決と雨燕の帰宅を待つ明花の部屋に飛び込んできたのは芳明だった。

 どうやら湿り気を帯びた風が木々の香りを運ぶと同時に、繁殖期も終わりに差し掛かった蜂が窓から侵入してきたらしい。彼が午後のおやつ、花蜜の香り豊かな期間限定月餅を握りしめているあたり、近くを飛んでいた蜂に好意(?)を抱かれてしまったのだろう。
 幼き頃から飛ぶ虫に並々ならぬ畏怖の念を抱く芳明は半泣きであった。

「姉様ならやっつけられるでしょ⁈ 僕無理です!」
「私だって……怪我はない?」

 いくら明花でも、蜂に刺されて平気な分厚い皮膚を持っているわけではない……との不満を飲み込み、明花は芳明の安否を確認する。
 雨燕が家を出て五日。事の状況を知る立場でない上、すぐには結果が出ぬとは言え心配は募るばかりであった。加えて、芳明への接触と加害を防ぐべく、四六時中気を張り詰める生活にも若干の疲れが出てきていた。

「怪我はないです。ただ蜂が、僕の月餅が‼」

 この期に及んで食べ物への執着を見せるとは、この姉にしてこの弟ありである。

 明花は念の為、芳明の露出した手や足に腫れがないことを確めると、畳んだばかりの洗濯物を手にし隣室へと向かう。
(窓を開けてればいつか逃げていくとは思うのだけど……もし逃げなかったらなにか追い払うものを、薬草なんか燻せば良いかしら……?)

 一瞬、明花は符を使った生物使役の可能性も考えたが、手間と効力とを考慮し、すぐに人為説をうち捨てる。
 明花は固唾を呑んで見守る芳明を背に庇い、万が一の場合は己の筋力と仙術とを活用し迎え撃つつもりで中の様子を伺った。

 開け放たれた窓と芳明が寝床として使用している羅漢床、荷物をまとめて収納してある|箱《しょう》……と、一見してはどこにも蜂の姿はない。

「いない……? 姉様、でも、あの箱に止まってたんです! もっと見てください!」
 芳明は荷物整理を疎かにしていたらしく、箱の蓋は半開き、中からは衣類がはみ出している。箱の中に蜂が入り込んでいないと良いのだが。明花はおそるおそる箱へと近付いて、そっと中身を取り出し始めた。

「わあああ、やめて、姉様‼‼」
「ちょ、ちょっと芳明⁈」

 芳明は飛び出し明花の腕を取ると、箱を背に隠そうと必死の抵抗を見せる。
 行けと言ったり止めろと言ったり、意味のない抵抗を試みたりと、慌ただしい弟の様に環境故の自身との類似性を見出した気がして、明花は多少の責任を感じてしまう。

 兎にも角にも、年頃の芳明と一悶着の末、蜂は箱にはおらず、窓から外へと逃げ出したであろうことがわかった。

「巣があるならどうにかしないとなぁ……」
 明花はほっと息を吐くと、箱とその中身を後ろ背に隠す義弟を横目に開いた窓へと手を伸ばした。

 ところが。
「ッ?!」
 大きな蜂の姿が視界に入ると同時に、思いも寄らぬ温もりを指先に感じ、明花はすぐさま手を戻す。
 既視感がある。がいつどこで感じたものかは思い出せない。

「姉様?! ……ああ、やっつけたんですね!! 凄い!」

 おそらく駆け寄った芳明よりも明花の方が驚いていただろう。
 芳明の部屋から無事脱出し、一瞬前まで窓外で遊んでいた蜂は、まるで丁寧に葬られた古の王のように窓枠の上で息絶えていた。焼け焦げ、全ての足を失っていたにも関わらず、縮れた羽をそろえて絶命していたのだ。

「芳明、違うわ。これは……」
 言いかけ、明花は止めた。雨燕のかけた術だと話したとて、なんの意味もない。付け狙う悪漢が喜ぶのが関の山である。
「弔ってあげま……」

 しかしながら、弔いの必要はなかったようだ。焼け焦げた蜂はふわりと浮き、庭の赤土へと吸い込まれていく。
 きっとこれもまた雨燕の術なのだろう。
 並の神子では気付かぬほど日常に馴染む、激しくも優しい術。そしてそれを顔色ひとつ変えず、短時間で施す技術。術をこの目で見たわけではないが、おそらく明花では容易に読み解けぬものであるに違いない。

(雨燕ってもしかして私が思ってるよりずっとすごい神子なんじゃ……)

「なんでもないわ。芳明、まだ蜂がいるかもしれないから気をつけるのよ?」
 明花はさして重要でない進言を二言三言芳明に伝えると、そっと頭を下げ、土へと還る蜂を見送った。

 不意に、窓辺で姉に倣っていた芳明から鋭い質が飛んできた。
「姉様、雨燕義兄さんのことを考えているのですか?」
「えっ、そっそんな別に雨燕のことを――芳明!」

 雨燕が非情に難解な術を施したとは知らないはずであるのに、芳明は人の心を見透かす術を心得てでもいるのだろうか。それとも想い人を連想していたと顔に出ていたのだろうか。

「姉様はとってもわかりやすいですね。義兄様も大変ですよ。こんなに姉様はか……あれなんですからね」

 どうやら後者だったようである。
 それにしても、照れくさそうな様子で芳明は「心配になるのもわかります」と続けるが、姉の明花としては「あれ」呼びに対してうんうん成る程、尤もだとは同調しがたいものがあった。

(雨燕に心配かけているのはわかってる……。でも、でも雨燕だってあれで人が良いから、いつか騙されるんじゃないかと心配なのに!)

 一度は怒りのやり場を誤るあまり心中で雨燕をばっさりと切ってしまったが、さすがに八つ当たりが過ぎると明花は省みる。
 誰知らず胸中で雨燕に謝ると、明花はなおもにこにこと微笑む芳明をねめつけ、野生の熊が襲いかかるかの如く大袈裟に両手を振り上げた。

「芳明っ! 姉様はあなたのことも心配ですからね!」
「あはは、姉様遅いですよ! そうだ! こっそり作ってる雨燕義兄さんへのあれ、熊の刺繍もしてあげたらどうですか? これでいつも一緒ですね」
「っ⁈ なんであなたが……! まったく! そんなに気になっているなら芳明の分も作りましょうか!」
「いいえ。せっかくですけど結構です。雨燕義兄様に作ってもらいます!」

 明花は弟に茶化され、掌で転がされるように揶揄われ。恥ずかしいやら腹立たしいやら、すっかり元気を取り戻した芳明に安堵するやら、教育的な指導如何が悩ましいやら等々と、大変複雑な感情だ。内心を誤魔化すために熊の真似をしたことさえも、次第に恥ずかしくなってきた。

「ううう……私だって雨燕に作って貰うんだか……ッ⁈」
 つと、散らかる書物にうっかり足をすくわれて、明花の体はぐらりと傾く。再び何か温かなものに包まれたかと思うと、ふっと体が軽くなった。

「姉様⁈」
「え、え⁈ ええ⁈」
 そのまま明花はふわりと浮いて、気付いた時には床の上、毛織物の上へと着地する。そして。

「大丈夫よ、芳――っひぅぁ⁈」
「うわああ⁈」
 ひやりと冷たい何かが明花の背を撫でて、何故であろうか、姉弟二人分の悲鳴が轟いた。

「姉様……」
「芳明……」
 二人は顔を見合わせる。芳明の硬い表情は、明花と同様の違和感を感じていると物語っていた。


 
『……と、当主殿に頭を下げられたよ。やはり黄苑麗は随分と反省しているからよしなに、で終わりだろうね。お前が心配していた、そう、川底から見つかったご遺体も弔ったよ。事情が事情だから一人一人返してはやれないが、冷たい水の底よりは幾分ましだろう。ところでそっちはそろそろ白麗洛か? 箱の術は解いたんだな?』
『はい。こちらは万事無事……』

 雪星が違和感を覚えたのは、頭に直接響いてくる念話に皮肉と愚痴を返しながらも、万事うまく執り行われたことを確認している最中であった。

『本当に救援はいらないんだな?』
『ええ……媒体の処理は終わりましたし、天鼠閣からも追跡は任せるようにと。組織の解……解体まではいかずとも……進展にはなりますから』

 部下の言葉が途切れるのは十中八九、神子の能力が低いからでも彼が僻地にいるからでもない。
 雪星は苛立たしげに頭をかくと頑固な部下へと聞こえるように、わざとらしく大きなため息を吐いた。

『そうじゃない。お前、怪我してるだろ? 俺を騙せるとでも思ったのかな?』
『……大したことはないです。すぐに帰ります』

 ほんの少し間は空いたが、彼はなおも雪星の助けを拒んでくる。

 正直なところ、今は猫の手も借りたい状態だ。救援に人手を割くとなればそれ相応の代償が必要。事が事だけに気遣いは非常に有難いものでもある。真面目堅物な部下らしいと言えば、全くもってそうであろう。
 しかし雪星も仕事人である前に人なのだ。十日ほど前まで衰弱しきっていた義弟の容態が心配でないわけがない。

『本当に平気ですから。それより明花は、明花は元気ですか? 何か変わりは……』
『元気だよ。ピンピンしてる。飯が美味いってさ』
『良かった……芳明はどうですか? 皆は』
『同じくだよ。芳明は月餅が、|俊宇《ジュンユー》とか雪月の奴らはうまい肉がもっと食いたいって』
『そうですか……』

 思わず雪星は嘆息する。
 大方、このおおらかな義弟は怪我をおして土産を見繕う計画を立て始めているのだろう。

 第一、この一連のやり取りにも似通う安否確認も幾度目であろうか!

 エン側と一戦混じえてからというもの、義弟は連絡する度に毎度、雪星から連絡せずとも、まるで付き合い始めた恋人同士の文交換の如く頻度で義弟は妹やこちらの様子を聞いてくる。
 流星の友として知り合った頃から雪星に負けず劣らず明花に対して過保護だとは思っていたが、少し前のエンによる妹への襲撃が彼の中にあるなにかの箍を外してしまったらしい。
 交際、婚約、同居、そして初めての仕事による外泊と。段階が進むにつれて部下は妹への気持ちや諸々の術使用を前よりも隠さなくなり、同時に輪を掛けて己の体を酷使した無理を押し切るようになった。

(あいつ、術が弱まるほど怪我してるのに大丈夫なのか? 山奥だぞ? もしかして治癒に力を回してないとかないだろうな……下手すると死ぬぞ?)

 応戦の負傷により神通力が乱れ、愛する妻を護る術の効力が弱まったのではないかと心配なのは理解する。一方、難が去った今、妹や陳家の面々を脅かすものは何も無い。
 信頼厚い部下兼義弟。申し分ない温厚婿。加えて、雨燕は妹を一途に深く愛している。妹もまた満更でない様子であるのだから、大変理想的な相手である。

 それなのに嘘偽りなく申すとすれば、雪星は少しだけ引いていた。

 しつこい。そして、ほんの少しだけ気持ちが悪い。
 当初は純粋な愛情にそこそこ満足し、【転化羽化】の近い体を酷使していまいかと心配していたが、最近は執拗な姿勢への薄ら寒さと呆れの方が勝っている。もし可愛い妹と相思相愛でなかったならば、雨燕のような自分の命を差し出す危なっかしい男を雪星は薦めてないだろう。

(多少のことでは死ぬような男でもないから良いが……ああ、くそ)

 雪星は内心の悪態を飲み込むように大きく息を吸うと、わざと真面目な口調でその名を呼んだ。

『なあ、【雪鷹(シェイン)殿】? もう一度聞こう。状況は正確に報告しろ。手間をかけさせるな。……そちらの損害及び状況、救援の有無と今後の見込みは?』
『衣服の損傷と多少の怪我はありましたが対処……対処済みです。救援の必要は無し。明後日には下山予定……資金諸々は……問題ありません』

 息切れルように途切れるも、迷いなき返答。雪星から幾度目かの重い溜息が出た。

 義弟が断固として自分ひとりで任務を遂行すると言い張るのならば、雪星とて優しい手を続けるつもりはない。部下の管理も任務の円滑な遂行も上司の務め。かくなる上は強硬手段も厭わないのが雪星の流儀である。

 雪星の薄い唇が弧を描いた。

『わかった。こっちは任せてくれ。……どうせあとは俺の書類仕事だけ。あいにく次の仕事もないから|白麗洛《はくれいらく》観光でもしてきなよ。ひとり旅も今後は早々できないだろうしね?』
『……はい』

 部下の苦笑混じりの返事に、雪星もさもこうなれば仕方が無いと納得したような笑いを返す。
 謀りと駆け引きに限れば、己は雨燕の何重をも上手を行くであろうと自負している。

『明花達も任せてくれ。最後の兄弟水入らずとでも思って。無理するなよ』

 冗談交じりの軽口を叩きながら、雪星は悪計をめぐらせるべく筆を執った。