かんざしには嘘を、××と君には×情を
「うん。わかったよ」
あまりにも迷わず頷いた少年を前にして、雨燕は瞬きした。
拍子抜けとはまさにこのこと。様々な応えを予想、考え得る対応策を準備し、あらゆる手を尽くすと意を決して臨んだ翡翠との交渉は、ものの数分でまとまってしまった。
いくら温厚な【翡翠】相手とは言え、無条件で雨燕の提案を呑むとは雨燕自身も全く予想していなかったことである。
果てなき闇に浮かぶ卓を挟んで向かいに座る少年は、唖然とする雨燕に微笑を返すと再び団子を口に運び始めた。
「別に……ん、これ美味しいね。製法になにかあるのか……僕としては呂雨燕には遺憾無く力を発揮してもらって……うん、これも美味しい……! 翡翠を快く名乗って欲しいからね」
次々と菓子を頬張る翡翠に神仏の威厳はない。
翡翠との接触からしばらく経つが、彼は非常に親しみやすい性格のようだ。
しかしまさか、こうもあっさりこちらの要求を飲むとは雨燕も想像できようか。
今も彼は予想に反して、雨燕の用意した菓子に夢中な様子である。
香り高い胡麻入り団子に蒸したての黒糖ケーキ、ほんのりと甘い棗(なつめ)餡の月餅、牛の乳を使ったとろとろのプリン等等。八神の力により雨燕が見せられている夢の中の産物、つまり意図して雨燕が想像したに過ぎぬそれらを翡翠は楽しんでいた。
今後、雨燕が翡翠を正式に継承し、彼が再び深臙の地に降り立った際には思いの外菓子代が嵩みそうである。
「本当に良いのですか?」
「構わないよ。前契約に対応してはいけないなんて成文律はないもの。力を持てばきみは一般人ではないし……うん、美味……かといって八神や八色玉とも違う。ぼくが友人に肩入れしてはいけないなんて規則もないから合法だよ。それより……」
まろやかな藤色の瞳がちらと雨燕を見やる。おどけたような軽い口調に似合わぬ無機質な視線に、思わず雨燕は背筋を正した。
「どうしてそんなことを? 人手不足なのかな?? それともきみはそういう願望でも?」
「違います!」
あらぬ疑いに雨燕はきっぱりと否定すると、己の気持ちを前置いて、一連の事件と今後の対応をかいつまんで話し始めた。
ところが。
「ふーん。それ、失敗すると思うけど良いの?」
雨燕の目論みは一蹴されてしまう。
「それはどういう……」
「みっくん……あー、深臙龍帝、きみたちの言う龍神サマがね、黙ってないと思うんだ。目敏いもの。『花嫁って言ってたよね』とまあ、言質をとってくるか、候補の印がないと黄苑麗が気付く前に彼の方から助力を申し出て、きみの退路を塞ぐだろうね。それに金剛殿も、ああ見えて他人の規律違反には五月蠅い。趣味みたいなものだけれど……あと、彼は顔が広いからね。エン側に他国の神が噛んでいた場合、呂雨燕、きみの計画の全貌は遅かれ早かれ金剛殿に筒抜けになるよ」
おそらく翡翠の指摘は外れていない。
計画は元より龍神や八神たちの動きが不確かであるという点が最大の懸念点だと雨燕は考えていたが、彼がここまで言うのならばまず間違いはない。当初の計画は断念し、別案を練り直さねばならない。
特に敵方に他国の神が関わっているやもとの視点は、雨燕も考えつかなかったこと。
手練、それも場合によっては人間相手では済まないとなれば、ますます策を慎重に練らねば命取りとなるであろう。
「では……」
「ふふ、違う違う。乗るって話」
「え?」
雨燕は再度瞬きする。同時に翡翠の満面の笑みに既視感を覚えた。この笑顔に非常によく似た印象の表情を、それも表面的にはそれほど似ていない表情を――見たような気がしたのだ。
「乗る、とは」
「呂雨燕、きみの話に乗ろうじゃないか。問題は龍神サマと金剛サマなんでしょう? 二人は僕が請け負う。他にも色々、たとえば芳明公子や陳明花、燐光府本陣の守護なんかも僕がいれば安心じゃないかな?」
「しかし、でもそんな……翡翠様がお手を……」
少年の笑みが深まり、雨燕は思わず押し黙る。
純粋でいて、幼子を目にした母の如く柔らかく、ひどく冷淡な微笑。一瞬だけ、ぞくりと背筋に悪寒が走ったように感じたのは神に対する畏怖なのであろうか。
「呂雨燕。きみは陳家に入るんだよね? ならば、陳家の者と名乗っても相違あるまい。あの子の……陳明花の、今は亡きご母堂にご兄弟がいなかったとは言い切れず、家は代々術士も道士も輩出している。ここはひとつ黄梅花に頼んで、一役買って貰えば後々の問題も滞りなく進む――と、それくらいはきみも考えたんだろう?」
にっこりと笑む翡翠に雨燕は戸惑う。
役は揃い、時が来たと手を差し伸べられても、そう易々と手を取れる案ではない。
「翡翠様、あまり多くの人を巻き込むのは……」
明花の一件があったばかりなのだ。
雨燕の許嫁とも知らず、戯れから逃した兎をあのような術で追った訳ではあるまい。
雨燕自身は良いとして、これ以上、無関係の人間を巻き込む策は気乗りしなかった。
「じゃああの子は? 黄梅花よりも頼もしそうだし、きみの為なら雪山にも飛び込んでいける子だろう?」
「絶対に、駄目です」
思いのほか低く唸るような声が飛び出て、幼子を脅かしてしまったと雨燕はハッとなる。が、当の翡翠は雨燕の反応に驚く素振りもなく、けろりとした様子。
雨燕はすぐさま翡翠にたきつけられたに過ぎぬと気付き、顔を赤くさせる。
「すみません……ですが、明花は顔が割れています。敵陣に踏み込ませるなんて……飛んで火に入る夏の虫です」
翡翠の言が単なる方便だとは知りつつも、雨燕は万が一の為に念を押した。
命を賭しても守りきると決めたからこそ。雨燕は自身の未熟さから目を逸らせない。
いくら鍛錬を重ね精進し、翡翠という大役を授かるまでになろうとも、人の行いである以上、術は完璧ではない。
既に四度――――雨燕は苦い記憶を噛み締める。
「ふふ、ごめんね。あんまりきみが一生懸命で頑固なものだから。でも……ぼくの手を借りるのは良い案だと思わない? それとも、きみは最初のきみの案よりも愚策だと思う?」
即座には言い返せなかった。
気乗りしない。翡翠の手を借りた新たな策が成功するとも限らない。
しかしそれでも、彼の手を借りるという策が雨燕の策の欠点を補っているのは確かであろう。
彼の手を借りればより安全に、より少ない人数で事を進められる。
翡翠はにこりと笑うと右手を差し出した。
「じゃあこうしよう。ぼくの願いを叶えてくれ。代わりに君に手を貸そう」
「願い、ですか……?」
雨燕の問いに答えるように、翡翠は嘲笑を口元に滲ませる。
「ぼくはひとりだからね……。どうするかはきみが、決めてよ」
雨燕は暫しの逡巡の後、翡翠の手を握り返した。
午後の日差しが窓を通り、複雑な透かし模様を机に描く。
雨燕から話を聞き、今後の対応や珊瑚達との連携について話し合い、健全な目的を持ってややもすれば健全とは言い難い淫らな行為に耽り合ってから一晩。
いつまでも布団の中で互いの気持ちを確かめ合っていては、本邸の父達に何があったか知られてしまうと、明花と雨燕は敢えて普段通り振る舞おうと努めていた。
羞恥に耐えた甲斐あって雨燕の顔色はすこぶる良くなり、ふらつきや目眩の類もなくなったようである。
一方、芳明はまだ少しだけ覇気がない。雨燕の付き添いにより幾分かは気持ちが楽になったのか。食欲が戻り、時々笑顔が見られるようになったのは幸いであった。
明花は透かし窓を開け、秋光を浴びる空の器を見下ろすと目の前の弟に気付かれぬよう、そっと安堵の息をつく。
雨燕の出立まであと僅か。珊瑚へは人を通して、翡翠の件に触れずに事の次第を伝えてある。雪星は配備に追われているそうで、所在を妹の明花が知るよしはない。雪星の忙殺ぶりを危惧し、父迪心は身重の雪星の妻やその実家家族へのとりなしに奔走しているようだ。
真面目な人柄と人柄を表したような恋をし、身分差はあれど美談として語られる流星の結婚に対して、雪星の結婚は妹の明花の知らぬところで色々と紆余曲折あったと聞いている。長所も短所もよく知る明花としては事件の解決を願いつつも、雪星が義姉にも部下の雨燕にも愛想を尽かされないと良いと願う心と、己の幸せの為に兄など放っておいて欲しいとの気持ちが共に在った。
兎にも角にも明花の当分の役目は決まっている。芳明の守護。幼い弟には我慢を強いてしまうだろうが、命が関わるとなれば暫くは耐えてもらうしかない。
「姉様……」
渓谷の川面を思わせる縹色(はなだいろ)の瞳が、ゆっくりと明花へと向けられた。
空の器を片そうとしていた明花は手を止めると、未だ普段よりも大人しい芳明へと言葉を返す。
「なあに? 芳明?」
「…………僕、雨燕義兄様が義兄様で良かった」
そう告げると、芳明は徐に縹色の瞳を伏せ、もじもじと指先を遊ばせ始める。
「小さい頃は義兄様のこと、優しくて頭も良いし刺しゅうもお料理も上手いけど、ちょっと弱そうだなと。気の強い女の人に押し負けてしまいそうで、姉様の相手としては頼りないと思ってました」
思いもよらぬ率直な告白に続けて、芳明は「でも全然違います。雨燕義兄様は漢です。優しくてかっこいい」と付け加える。
単純な芳明が当初は雨燕をそのように評価していたなど、正直大変意外であった。
「雨燕に伝えたら、きっと喜ぶと思うわ」
「そんなこと言えません!」
芳明はぶんぶんと首を振り、雨燕に気取られ嫌われまいかと心配しだすが、たとえ過去の評価全てを悟られたとしても、雨燕ならば嬉しく思いそうである。
照れながらも相好を崩す雨燕が目に浮かび、明花は頬を緩ませた。
「僕、義兄様とずっと一緒にいたいです……姉様とも、本当は……いつも、いつも本当にありがとうございます」
芳明の声が落ちて、小さな手が明花の袖を引く。
難しい年頃に差し掛かった弟の精一杯の甘えなのであろう。
もしかしたら雨燕への想いを吐露したのも、明花へと感謝を述べる前口上だったのかもしれない。
明花は俯く芳明の頭を撫でようとして、はたと思いとどまった。
代わりに手を取り、緩む口元を隠さずに弟を見る。
「どういたしまして。私こそいつもありがとう芳明。これからも、どこにいても。私は芳明の味方よ。きっと父様も雨燕も」
芳明はぎゅっと唇を噛むと瞳を潤ませた。
「……姉様は、僕が、僕が悪い事をしても間違えても……味方でいてくれますか?」
縋るような眼差しには鬼気迫るものがある。明花はゆっくりと頷くと、安易な返答にならぬよう、拙いままに精一杯の愛情を込めて言葉を繋ぐ。
「芳明が大事だから沢山叱るし、とっても悲しむけれど。でも、嫌いになんかならないと思うわ。大切な貴方が罪を悔いて謝れるよう背中を押して、相手の方にも一緒に謝って。それから、もう一度自分の足で立派に歩いていけるように……芳明が望むならば二度と同じ過ちを犯さぬよう共に考えましょう」
言葉を尽くすが、明花とてこの答えが正答だとは思っていない。それにいずれは彼も明花達の下を離れ、飛び立っていく。
だからただ、血は繋がらぬとも大事な弟である芳明への愛情を懸命に示したつもりだった。
「姉様……今度、謝りたい人がいるんです。その人は気付いていないかもしれないけど、このままだと僕は僕を許せなくて……雨燕義兄さんが無事帰ってきたら……お菓子、一緒に選んでくれませんか?」
縹色の瞳に迷いはなかった。
「ええ」
雨燕から芳明が事件に関与してしまったことや利用された可能性については聞き及んでいる。
芳明の言う悪事や相手に心当たりはないが、頼みも数日悩んでいたことと関わりがあるのだろう。姉としては非常に心配ではあるが、この件については雨燕から暗に追求無用、任せて欲しいとの旨を言付かっていた。
(悪い事って……何があったのかもう少し聞きたいけれども……)
雨燕と芳明を信じ、明花はぐっと堪える。現時点で自分に出来る事は菓子選びを手伝うことと、雨燕達を信じ、事件解決まで芳明を守ることだ。
「ありがとうございます。姉様。ところで姉様は義兄様と仲直りされたんですね。指輪とかんざし、とっても似合ってますよ」
「えっ?! あ、あぁ、えぇと……あ、ありがとう……?」
芳明に言われ、明花は先日まで雨燕との会話がほとんどなかったことを思い出した。
思い返せば、燐光府の職務に仁円光の討議研鑽、多忙と神通力関連の体調ばかりを気にしていたが、弟の目には新婚夫婦の仲違いにも映ったにた違いない。
「あのね、芳明。姉様と雨燕は今も昔も仲が良いから……」
心配無用と言いかけて、明花の脳裏に浮かんだのは昨夜の濃密な情交だ。互いに初めて晒す素肌に触れ合う熱、喘ぎ声にも似た艶やかな声と好意を雄弁に語る眼差し等々。到底伝えられぬ雨燕との仲良き時を思い出し、明花の声は上擦ってしまう。
「良いから、ね。良いから……安心して――」
その時。風にのってどこからか泣きすがるような声が聞こえた。
風向きが変わったのか、すぐにそれは微かな囁きへと代わるが、明花ばかりだけでなく芳明にもそれは届いたようである。
場に緊張が走り、硬い表情が明花を見上げる。
「姉様……」
明花は芳明へと目配せすると、きっちりと窓を閉め、息を潜めて部屋を出た。
陳家には雨燕の仙術により結界が施されている。加えて日はまだ高く、雨燕もまだ家を出ていない筈。危険性は限りなく薄いと知りながら、それでも心音は速くなる。
明花は耳をそばだて不審な物音が聞こえる方へ、明花と雨燕が仮住まいとする離れの裏側へと、木立の影を縫うように抜き足差し足歩いて行った。
やがて嘆き混じりの囁きは、しゃらしゃらと軽やかな音を添えて大きくなっていく。中庭を進み裏門へと続く道の途中で、明花はそれが雨燕と誰か、若き乙女との会話だと気付いた。
(雨燕……? 行かない方が良いかな……?)
ふと足を止め、明花は暫し逡巡する。彼の職務を考えても、これ以上の追求の必要性もなければ、盗み聞きや盗み見の正当な理由もない。
しかし。
「……い花(ふぁ)様、誤解です……」
風に乗って、雨燕の声だけでなくどこか――つい最近快いと感じたばかりの――華やかな香の香りが届き、明花の判断を遅らせる。
「そんな……お兄様は私の気持ちを知ってもなお、そんな事を……らにもっと待てと?」
「ええ。梅花様。どうか」
「ひどい! 雨燕兄様は理由さえも仰ってくれないのね……約束だって……散々……ひとの恋心を弄ぶなんて、悪趣味だわ!」
自然も人の心も総じて御しがたく、神通力を手にしたとて人の手及ばぬ、ままならぬものである。
為す術なく、明花は衝撃的な告白を聞くこととなってしまった。
※盗み見や盗み聞きは基本、正当な理由がないものです。