missing tragedy

かんざしには嘘を、××と君には×情を

『かんざしには嘘を、手巾と君には恋情を』

 淡い橙色の羽根が広がった瞬間、翡翠色の水面が揺れた。散りばめられた紅や黄が僅かに動き、次いでどことなく滑稽な水音が静寂を打つ。

 欄干にもたれかけ、黄苑麗は秋も深まる庭の池をぼんやりと眺めていた。
 小鳥が羽根を休めていた止まり木は折れ、ぷかりぷかりと水面を漂う。
 休み場所を失った小鳥は魚をも逃したが、帰る場所、或いは彼を待ち望む家族を失ったわけではないのだろう。彼は失敗を気に病む小物ではないといわんばかりに空を舞い、意気揚々と黄金(こがね)に染まる葦の間へと消えていった。

「……無明、か」

 苑麗の唇から過去の自分が信じて疑わなかった言葉が零れ、脳裏に乙女の微笑が浮かぶ。藤色の着物、艶やかな紅、神秘的な黒色の瞳、深い教養と機知に富んだ措辞――。
 冷たい風が苑麗の項を撫でる。物寂しい秋の香りが山吹色の重く豪奢な裾を揺らし、刻まれた呪いのような印をもなびかせた。間を置かずして、しゃらしゃらと軽やかな音が届くと、苑麗はハッとしたように顔を上げた。

「お兄様、こんなところにいらしたんですね」

 胡乱な眼差しの妹梅花を見やり、苑麗は肩をすくめる。
「見張り役に再就任かな。具合が良くなってよかったよ。翡翠殿のお陰かな?」
 敢えての軽口を叩いたものの、みるみる梅花の顔は強ばっていく。苑麗の妹よろしくわかりやすいものだ。

「……ええ。まあ……何も変わりませんわ」
 それが何を指しているのか、苑麗は薄々感づいていた。唇を噛みしめる梅花の視線は池の睡蓮へと向かう。
 褪せた葉が揺蕩う。

 黄家の睡蓮は一見すれば苑麗兄妹のようにも見える。
 どのような状態になっても小さな池から逃れられず、枯れた葉に目がいかぬよう必死に取り繕い、さも栄えているように花を咲かせ、不動のように見せかけながらも風など吹こうものならば水面と一緒に揺らいでしまう。その逞しき根を、気高き強かな花を、変化と順応に意味があることを、すっかり忘れてしまった時には睡蓮は不憫な兄妹にも成るであろう。

「変わらないものがあっても良いじゃないか。そんなお前を好いてくれる物好きもいるだろう」
「そうでしょうか。過ちはなくなりません。そして九つの美点よりも一つの汚点が際立つのが世の常ですわ」

 それも一理ある。梅花が自らを疎むが如く歪んだ笑みを零すも理解しよう。しかし彼の取り計らいで謝罪は受け入れられ、虎狼府の活躍により事件も解決したのである。過ちを認めつつも、どうにか妹の心を前向きにしてやりたいのが兄心である。

「それより、話があって来ましたの。実は兄さ……」

 そこまで言いかけて一つ、梅花はコホンと咳払いすると「翡翠様が」と言い直し、彼の後任について意見し始めた。

「…………ですから、次に護衛を付けるならば他のお家のご子息や官吏以外にすべきだと思います。黄家を思う兄様の気持ちは存じておりますが、またあの狐目の官吏に便宜だの職権乱用だのよくない輩と繋がったのだの、あらぬ事を疑われるに……兄様? 聞いてらっしゃいます?」

 眦を上げる梅花へと軽く頷き、苑麗はにこりと笑いかける。

 名案を思いついたのである。

「わかってるよ。交流は得てして反感を買い誤解を招く。当人同士も周りもね。難しいものだ。だから次の護衛はあの仁円光の可愛らしい坊ちゃんにしよう」

 梅花の顔は瞬時に強ばり、次いで僅かに朱に染まり、年頃の娘らしく必死にかぶっていたであろう淑女の仮面が剥がれていく。

「っな、何を仰ってますの⁈ わたくしのせいで酷い目にあったばかりですのよ⁈」
「女の子に見蕩れて忘れたのはあの子の咎、盗んだのは盗人の咎さ」
「絶対に見蕩れてなんかいませんわ! 嫌われてますもの……忘れることも誰もが経験することでしょう。それに……わたくしのせいですのよ。浮かれてお家に渡し行こうなんて思ったから、寄り道なんかして……それだって、すぐに謝りに行けば良かったんですわ」
 溢れる涙を堪える為であろう。梅花は大きな瞳をさらに見開き、眉をつり上げ、ぎゅっと唇噛みしめる。

 彼女は彼が容疑者として疑われた因の全てが、己ににあると信じて疑わないのだろう。
 実際、幘の存在は苑麗をも触れられぬ不思議な力が働いて、漏れ聞いた苑麗や梅花の他は、担当した者や黄家の当主などの極一部の人間しか知り得ない。またその点を考慮せずとも、虎狼府の面々が事件現場に不自然に落ちていた幘ごときで子供を疑ったとは考えにくい。
 
 むしろ苑麗は、その一連の奇妙さに自分達の知らぬ要因を感じたのだが、乙女に釘刺されている手前、深追いをする気はない。

「そうかなぁ」
 梅花もこれ以上は知らない方が良いだろう。わざと暢気に苑麗はとぼけてみせる。
「好きでもない女の子の呼び出しに応じるほど彼は浮気性なのかい?」

 瞬間、今度は明らかに梅花の顔が赤くなった。

「そんなことあるわけっ……知りませんわ⁈ それにわたくし一言たりとも陳芳明のことをす……っみれ色の瞳だなんて言ってません!」
「はは、名は陳芳明。瞳は菫色でないんだね。何色かなぁ。楽しみだ」

「兄様! 違うんですの! わたくしあの方のことは全く! まっったく好みではないです! もちろん優秀な神子になる逸材として認めておりますけれども、まだ幼いので無遠慮で短慮なところもあり、本当に自由で危なっかしいんですのよ! 月餅とお姉様のことしか頭にないですし、蜂や|虻《あぶ》が出れば怯えて逃げてわたくしの背中に隠れようとしますし、終いには袖を引っ張って逃げようとしますし! ですから全然これっぽっちも小指ほども興味なんてありませんわ!」

 勢い込んで告げた途端、梅花は美しい顔を曇らせ、苑麗に聞こえないほどの小さな声で「芳明も嫌でしょう。可哀想です」と付け足す。
 彼女はそのまま苑麗の眼差しから逃れるように青ざめた顔を袖で隠すと、再び池へと視線を逸らした。

 二人の間を残菊の香りをまとった風が吹き抜け、梅花のかんざしがしゃらしゃらと鳴く。
 兄としては力になってやりたい気持ちもなくはないが、交友関係に家族が出しゃばるほど余計なこともない。

「どうしたのかい?」
 念の為と揶揄を装って軽い気遣いだけは示したが、梅花の返答は予想通りすげないもの。
「兄様にお願いするようなことではないですわ。わたくしが決め、わたくしが動かなくては……お気遣い感謝いたします」

 しかしその中にはたしかに、彼女の意志が灯っていた。兄としてはひとまず様子を見ようかというところか。苑麗はそっと安堵の息を吐いた。

 「兄様って……」
 つと、梅花の瞳がちらりと苑麗を見やった。
「なんだい?」
「いえ、巷の噂など信頼ならないってことですわ」
「気になるなぁ」
 手厳しく、明言を好む妹にしては珍しい言に、思わず苑麗の口角も上がる。

「別に。くだらない噂ですわ。遊び人だったお兄様がお風邪を召されたのが原因で四角い箱や石に怯えるようになったとか、少しだけまともになったなどという」
「ははは。確かに間違っているね。私は今も小さな労力で大きな利益を欲する、まともでない方の人間だよ」
「まあ!」

 梅花の黒色の瞳が大きく見開き、すぐにそれは眦上がる怒気滲むものへと変わっていく。
 どうして彼女の逆鱗に触れてしまったのか。生憎、苑麗にはまだわからない。

「大丈夫だよ、梅花は兄に似ずまとも側だ」
「兄様? ……本気で仰ってるのならば、兄様とて抗議いたします」
「どうしたんだ? おいっ⁈ 兄さんは銅鑼じゃない!」
「兄様は最初から優しくて素敵な人ですわ! このわたくしが言うのですから本当です!」

 苑麗は梅花の粗暴な振る舞いに戸惑うばかり。鼻先では、まるで彼女の怒りを表すように紅水晶のさざれ石がなきわめく。
「こらこら、」
「こらじゃありません! 軽薄に見えるのは兄様がとても難しい立場に立たれているから、卑屈なのも責任感が強いからです。きちんと理由があるのに兄様の目は節穴なんですの⁈ 鏡が悪いんですの⁈」

 何気なく流れていった言葉に苑麗は刮目して、
「ははは……そうか。感謝する。梅花」
 気付けば、久方ぶりに満面の笑みを零していた。

「そうですよ! その笑顔です。兄様」
 梅花は得意げな様子で胸を張る。艶やかな茜色の袖が揺れ、刻まれた黄家の印が軽やかに舞う。

「天女……か」
 苑麗は澄んだ空を仰いだ。

 転換羽化――思えば苑麗もそのようなものに憧れていた時期があった。黄家当主と八色玉のみが知る真実、『声掛け』と呼ばれるそれに憧れ、補佐役の自分が継げば黄家を盛り立てられると奢っていたのだ。
 結果、少し前まで――藤色の乙女と出会うまでは――苑麗は挫折の末に不信を募らせ、疑心暗鬼になり、叶わない夢はみたくないと目を背けて己の弱い心を守ろうとしていた。軽薄で騙されやすいうつけ者が無能でもなんら不思議でないと言い聞かせ、気楽で、但し無性に虚しい日々を過ごしていたのだ。

 しかしもし転換羽化が、転じて換える、凡庸な主が心を改め努めることで羽を得て、登ると解釈するのならば。藤色の彼女が苑麗にとっての天女だったならば――。苑麗はひとつ、他愛ない小さな物語を愛でるかのように溜め息をつき、天に向かって淡く笑った。

「兄様は誇るべきですわ。笑顔ならば、あの翡翠兄様にも負けないんですからね!」
 鼻息荒い力説が耳に届く。

 苑麗にとって彼女が何者であるのかも、転換羽化の解釈の正誤も重要ではない。
 乙女の一撃、心に響いた二つの事象をどのように捉え、思考をめぐらし己の血肉としていくか。貪欲な黄家の次男は自嘲する。
 染み付いたものは拭いにくい。苑麗はいまだ『小さな労力で大きな利益を』と宣う己が、根本から変われたとは思えない。
 それでもまた、己が妹に説いた言葉を信じるのならば、変わらないものがあっても良い。そして本質は変化そのものに在らずと宣うならば、変わっても良いとも捉えられる。

「……詭弁だね。ぴったりだ」
「兄様? とにかくですね、詭弁だなどと仰らずに真剣に向き合うべきですわ。自慢の兄様なのですから。わたくしのお墨付きですよ?」
「そうかい。それはそれは。有り難いお言葉、そして梅花ちゃんの新しい語彙。ありがたく頂戴しよう」
「それはどのような意味ですの?!」
「我が家の家宝が今日も可愛いねって話だね」

 妹の眉間に皺が寄らぬうちに、宥め機嫌を取っておきたい。苑麗は流れるように梅花の手を取ろうとし、そして止めた。

 先日も無闇に女性に触れて、苑麗は後悔したではないか。
 果たして浅知恵を働かしたあの時、弾かれた手を引かなければ、痛みと吐き気は半日で止まなかっただろうか。それとも端から術者は威嚇目的、軽度で済むよう目論んでいたのか――。

「さて行きましょうか、お嬢様。帝国のお茶が届いている頃だよ」
「まあ! それは急がないと」

 苑麗は思考を止め、細身の青年を思い出す。

 呂家の青年。今になってみれば、黄家の威光回復の為の引き抜きが失敗に終わったことは幸運だ。運良く『身の置き所について』などと鎌をかけた彼女への接触が有耶無耶に終わり、偶然にも八色玉との奇異なる縁が生まれたのも幸運。それで良い。

 触れた手がなぜ痛んだか、詳しい理由を探るも野暮であろう。直接的な原因に限れば、苑麗の経験上おそらく答えは至って明快。

「兄様。嬉しそうですね」
 梅花は寂しさを残して淡く笑う。
 
 妹の心を晴らしてやりたい――苑麗の願いは、これまた幸運にも間もなく届いた手紙と菓子により叶うのであった。