かんざしには嘘を、××と君には×情を
初夜(?)のお話 ①
穴があったら入りたい――誰しも、失態によるあまりの羞恥から顔や姿を見られる事さえ恥ずかしくなり、隠れてしまいたい気持ちに駆られた経験はあるだろう。
その原因が浅はかで滑稽な自分自身であり、周りを巻き込んだものなら尚更。良くも悪くも記憶に深く刻まれ己への戒めとなったり、場合によっては語り草にされる事もある。
少なくとも深臙国に生まれ育った呂雨燕は、これまでの人生の中で幾度もそのような気持ちを経験していた。
たとえば。十五年前、無謀にも一人で裏山に踏み入り、己の力に対する奢りと浅慮さを思い知った時も。
十年前、手巾を贈られ、無邪気な親愛とも知らずに内心舞い上がり、後に自惚れと無知に気付かされた時も。
この前、敵の力を侮り翡翠に力の制御を望んだばかりに大怪我を負った時も。
他にも数月引きずり、今でもありありと思い出せるようなものだけでも幾度も。
つい先日の大怪我の後も重ねて雨燕は失態を犯した。大いに誤解を招く不本意な姿を愛する妻に知られてしまったのだ。
助けに来てくれたことは天にも昇るほど嬉しかったが、如何せん雨燕の姿はどこからどう見ても可憐な乙女そのもの。
しかも自身の力不足によって怪我をし、高熱で満身創痍という情けなく弱々しい様相であった。
いくら虚栄心と縁遠い雨燕であっても全く持ち合わせぬわけでもない。こと、明花に対しては特にである。ありのままの自分を好いて欲しい気持ちもあれば、凜々しい夫として認識して欲しいとの気持ちも捨てきれず。雨燕としては穴があったら入りたい事案であった。
――はずなのだが。
幸か不幸か雨燕の妻はその姿に感嘆し、思わず頬が緩むような温かな言葉をも贈ってくれたのである。
ともあれ、一件の事後処理を無事終え、翡翠に隠匿の術の解除を願い、八色玉【翡翠】を正式に継承、先日の宝玉祭で明花との祝言を挙げた雨燕は再び穴があったら入りたい気持ちに駆られていた。
「じゃあ……僕の術は逆効果、本末転倒だったのですか……」
弱々しい声が雨燕の唇から漏れる。目の前の――と言っても夢の中なので正確なところ適切な表現かはわからない――翡翠は苦笑を滲ませた。
「そうとは言いきれないけれども、ね。術により内外の神通力の流れを操作して内に募る気持ちを隠し忍び、自己の欲望を過度に抑制、心身に負荷をかけ、軽率な行動に繋がらぬよう雑念を断つ。鍛錬をも怠り力を弱らせる……あの子への想いを口にする機会は減るだろうし、翡翠を継ぐに適さない能力、状態である限り継承は行われないのだから、きみの術は理論上間違ってはいない」
「では実際は何か支障が出るなり、他の要素により効果が変わってくるのですか?」
雨燕は羞恥を感じながらも翡翠に問う。
失態への落胆や羞恥も|然《さ》ることながら、一神子としては術がなぜ望んだものとは逆の効果を発揮してしまったのかも気になったのだ。
思わず身を乗り出せば、微笑む翡翠に雨燕はぽんぽん、と肩を叩かれた。
「そうだね。それもあるけれど……」
翡翠は首をかしげながら仙術と雨燕の施した術について、まるで仁円光の教授の如く丁寧に講義を始める。
彼が言うには、そもそも程度であれ種類であれ、強い想いを内側で覆い対象者を騙し、欲望を術者の思惑通り限定的に抑制、外へ悟られぬよう隠蔽することは至難の業。さらには自身への、あのように人体の健康を大きく損なうような強力な術となれば、この世の生の理(ことわり)に逆らう行為にも近しいらしい。
八色玉継承前の人間が術式を試みてもまず成功はせず。八色玉が術を続けられたとしても龍神から苦言を呈されるだろうとのこと。案に違わず、当時は八色玉と成るには僅かに至らぬ雨燕の術式も不完全なものであった。
雨燕は運良く命拾いし、龍神の呼び出しも免れた。しかし他方で不完全な術は思わぬ効果をもたらしたのだと、彼は言う。
「きみはきみ自身に術をかけたけれども、あの子を好きだって気持ちは変えられなかった。想いも内に留められなかった。おまけにあの子と性交したいって気持ちは術をかけた後の方が強かった。違うかな?」
「⁈ っなにを翡翠様は仰っ……その…………何も違わないですが……でも」
突然の思いもかけぬ猥談に雨燕はいたく困惑する。発する声は次第に小さく、覚束無いものになっていった。
情けない、愚かしいと思いつつも、否定をするには根拠に乏しい。
たしかに術中にあった雨燕は、性欲――正確には明花へと触れ睦み合いたいとの欲が――強まっていたように思えたのだ。
「……だから本末転倒なのですね……明花を守ろうとして僕は……」
雨燕が目に見えて萎れてしまったからであろう。翡翠はゆるく首を振る。
「まあまあ。自らに術を掛けるとはそういうことさ。欲(きもち)を抑えようと取り組む|願い《きもち》も意志のひとつ。さらに術式を編むとなると、相当うまくやらないと。きみはよく頑張ったさ。ご飯も食べず。ろくに眠らず。仕事をしながら剣を振り始めたり、川に飛び込んだりした時は心配したけどね」
「あ、あれは……」
雨燕としては単に欲望に屈しないよう、浮かぶ明花との甘い時間の妄想を打ち消そうと努めたに過ぎない。
つまり明花を異性として意識し、特別な存在だと自覚してから行ってきた数々の行為と大差はなく。あくまでこれまでの人生の延長線上にあったとも言える。仕事をめいっぱいに詰め、休憩時には異国の本を翻訳し、雑念浮かぶ帰り道では剣の素振りを取り入れる。着物で入水しかけたのも、寝不足で血迷いかける頭を冷やそうと、必死に行動した結果ではあった。
しかし真意を知る翡翠でさえ雨燕の振る舞いには困惑したのだ。傍から見ていた雪星の心情はいかほどであっただろう。
普段から妹(明花)が絡むと少々挙動が怪しくなる部下が、とうとう壊れてしまったと心配したかもしれない。
(もしかして僕は雪星|内兄《にい》さんに物凄く気を遣わせてしまった……?)
雨燕の顔から血の気が引いていく。
対して、翡翠はそんな雨燕の思いに気付いているのかいないのか、返事の代わりに虚空を指先でなぞった。七色の光が仄かに灯り、次々に術式を刻んでいく。
「神通力は神羅万象、万物を巡る。術はその流れを汲まなければならない。きみたちの言葉で表せば、術の根幹は国土をはじめとした万物を読み、流れを汲んでこそ真価を発揮するもの。術式の形、編み方で種類と巡らせ方、出力値を定め顕さなければ成り立たないんだ。あのような無茶は生の理に反する」
翡翠の眼差しが雨燕へと渡る。人成らざる者のそれが、ふっと緩んだ。
「ぼくは力のない神だ。もうやめておくれよ」
「すみません……今後は一層心に留めて努めます」
揺るがぬ想いが伝わるように。雨燕は未だ青い顔のまま、真っ直ぐに翡翠を見つめ返す。
力は強くも、存在は脆い――八神の秘密を知るのは龍神と八色玉のみである。
そして彼が抱く想いを知り得るのもまた、翡翠である雨燕と龍神のみなのだ。
これ以上、彼を悲しませたくはない。それは人としての雨燕の情であり、八色玉としての翡翠の責でもあった。
「呂雨燕を大事にしておくれ。きみを想っている者は、ぼくときみの前の翡翠、そしてあの子。少なくとも三者は居るんだから」
にこりと翡翠は微笑むと、まるで孫を撫でるように雨燕の頭を撫で始める。
抗う理由は特になく、雨燕は顔を赤くさせつつも甘んじて受け入れる。面映ゆく、こそばゆいその感覚は祖父や明花の母を思い起こさせた。
「術や呪は少しずつ覚えていけば良い。大事なのは龍神様と民を知り、ひろく理解し、きみをきみが受け入れ理解すること。ぼくも助力する。共にのんびり楽しくやりたい。どうだい?」
「はい」
「ありがとう。ふふ、なんだかぼくも鍛錬がしたくなってきたよ」
翡翠は体を左右に揺らし、満面の笑みで腕を回し始める。その様はあどけない容姿と相まって、先程とは打って変わって無邪気な幼子のように見えた。
「ところで、今日はあの子と翠蘭記に行くんだよね? 実はあそこの職人に楊(ヤン)という可愛らしいお嬢さんがいるんだけれど、あの者と親しくなっておくと良いよ。あの者の夫は術具を作らせれば天下一でね。あいにく数年前に円環へと帰してしまったけれど……幼い頃から切磋琢磨した彼女も引けを取らない。最近体が思わしくないようだから無理はできないが、ぼくの名前と贈り物だと伝えれば、喜んできみの術に合ったかんざしや櫛を作ってくれると思う」
「楊殿ですね。ありがとうございます。当たってみます」
ふと雨燕は先の翡翠の言葉に思いを馳せる。
悠久の時を生きる彼にとって、ひとりの翡翠との時とはどのような感覚(もの)なのだろう。
刹那にも等しいその時を、共に楽しみ、ゆっくりと過ごさないかと尋ねた翡翠。彼の想いの片鱗へと、雨燕は暫し触れたような気がした。
「さて、今日はこの辺りで。呂雨燕」
「また宜しくお願いいたします。【翡翠】様」
「ああ、そうだ」
別れ間際、翡翠は何かを思い出したようにぽん、と手を叩き、続いてわざとらしくゴホンと咳払いをする。
「手は回してある。きみがその、成長することについてはなんの遠慮もいらないからね?」
言葉の真意を汲み取れず、雨燕は幾度か瞬きし、気まずげな様子の翡翠をまじまじと眺めて首を捻り。
そしてようやく合点した。
「っ?!」
「別に川の流れや音のようなもの、力の変化が伝わってくるだけだよ。安心しておくれ」
「やっぱり伝わってるんですね?!」
「時差はあると思うよ」
「伝わってるんじゃないですか……」
雨燕は顔を赤くし涙目で訴える。
深臙国を統べる龍の神は力のある神子を望み、花嫁とするべく声を掛ける。八神は神通力の変化を龍の長に悟られぬよう隠し、惑わす秘術をもつ。それならば彼、翡翠もまた八色玉珊瑚のように万物の神通力の変化を知るが道理。至極当然、納得するところではあるのだが……雨燕の感情は追いつかない。
「うう……なんてことだ……」
よろめき呻く雨燕の背を翡翠の小さな手が撫でる。
「ごめんよ。でも変化だけだから安心してくれ。きみが寝ずにものすごい鍛錬をした、帝国の悪鬼を根絶やしにして神獣の麒麟に懐かれたなんてこともあり得るからね」
彼のそれは励ましか。はたまた心からの慰めか。どちらにしろ未だ閨を完遂できていない雨燕を知っての親切心によるものなのだ。
藤色の瞳に憐れみと優しさが同居しているように見えるのもきっと、不甲斐ない雨燕自身への引け目が見せる幻覚であるに違いない。……おそらく。
「お手数をお掛けしてすみません……ありがとう……ございます……」
雨燕は真っ赤に染まる顔を上げ、羞恥をおして感謝を伝えた。
「ではまた会おう。呂雨燕」
翡翠龍の藤色の瞳が細まり口許が綻ぶ。
「はい。翡翠様」
草色の髪が翡翠色の風に巻き上げられ、川面を遊ぶ絹のように滲み始めた視界を揺蕩う。
やがてそこは雨燕の意識へと溶けていった。
「……はぁ……」
形の良い唇から、ため息とも息継ぎとも取れぬ吐息が漏れた。
雨燕は昨夜の失態を思い出し、如何にも書物を嗜み深く思料するかの如く、きゅっと唇を引き結ぶ。
すぐ傍らでは明花が書物片手にうつらうつらと船を漕いでいる。夜着から覗く項は仄かに火照り、湯上がり特有の匂い立つような甘やかな香りを放っていた。
明花を起こさぬようにそっと息を吸い、吐いて。雨燕は挽回の二文字を胸にこれまでの夜を思い出す。
口付けや愛撫は適切であったであろうか。明花の気持ちを随時汲み取り思い遣り、己の気持ちも適切に伝えられたであろうか。
明花にとって触れ合いは心身共に満たされるものであったろうか。
否、雨燕はどれも全く自信がない。
口付けに於いては三度に一度は目的の場所を外してしまうし、愛撫は執拗、いちいち赤面興奮し慌てふためく始末である。触れ方度合いも適切と言えるかどうか怪しいもの。実際の手本も比較対象も皆無である為、反応そのものから是非を問うのも難しい。気持ちを伝えるに至っては、日中胸に秘めたる気持ち全てを伝えようなどと先走り、回り回って非常に語彙が乏しくなる。その癖、言葉数自体は多くなる。
回顧が虚しくなるほどに、閨での己は情けなかった。
明花は最中、好意や感謝、愛撫の所感をも仔細に伝え、雨燕が果てた後は毎夜微笑み幸せと喜びを口にする。至らぬ雨燕を強く抱き締め頬を真っ赤に染めながら、次をも望んでくれる。
それは嘘偽りのない彼女の本音ではあるのだろう。
雨燕の拙い技術技能と、いささか気持ちが悪いとも言えよう言動挙動。おそらく明花もこれらを多幸感とは別問題として捉えてくれているのだ。
(僕とだからと思ってくれるのはすごく嬉しい……でも、だからと言ってこのままでは……僕の精一杯では、まだまだ足りない。僕だけが気持ち良くて幸せでは駄目なんだ。明花と一緒に……)
明花が寝返りを打ち、雨燕は始まりかけた酷い妄想(イメージトレーニング)から現実へと引き戻された。
良い夢を見ているのか明花の頬が緩み、桜色の唇から菓子の名に続いて雨燕の名が零れる。
「明花……」
雨燕は明花へと布団をかけ直す。ひんやりとした空気が頬を撫でた。
性交時、雨燕の興奮したそれが全て明花に収まることに成功したのは、つい先日。
婚姻の儀を終え、初めて深く愛し合うのだと意気込んで、共に挑んだ日から数えても既に三ヶ月の時を擁していた。
理性を擦りに擦切らせ、ゆっくりと事に及んだ為か、雨燕は過ぎる快楽に耐え切れなくなり、腰を揺らすことなく果てている。
もちろん、欲だけで申すならば続けて二度三度、明花が許すならば幾度でも、再び行為に挑んで愉楽を分かち合いたかったのだが。眦から零れる涙に強ばる体、浅い呼吸を捨ておく選択肢を雨燕は持ち合わせていなかった。
結果、雨燕はわざと疲労を仄めかし、日を空け休養を挟みたいと提案。再び興奮しだした己の雄を鎮める為、夜夜中、寝入った明花が眠る寝台の脇で鍛錬を始め、終いには仙術で大気から冷水を作り体に纏わせるという奇行に走る羽目となった。
判断に一切の後悔はなく、再び同じようなことがあったとしても、雨燕は激情をひた隠し、同じ判断を下すだろう。
然しながら、改善の余地は大いにある。……否、正直なところ良かった点は見当たらない。欲に支配された鬼畜にはならなかったに過ぎず。唯人として、当然の振る舞いを少しばかり行った、それだけである。
(おいおい技術も……共に練習していくとして。体の負担を考えると事前の確認のみならず、日頃から頻度には細心の注意を払わなければ。今後も週に一、二度? いや、神子の仕事もある。今も疲れて寝てしまったんじゃないか? 僕が不甲斐ないばかりに……いいや、明花は喜んでくれた。その言葉を信じよう。負担が大きいのは事実だ。月に三、四度が適正か……? 月のものの時期以外も体調に影響が出るならば更に余裕をもって……)
雨燕は書棚からこっそり持ってきた医術書を見ながら、閨の計画書を記し始める。
明花の反応へのこの上ない喜びと、気遣わせてしまっているのではないかとの申し訳なさ。そして夫としてもっと向上していかねばとの焦りは雨燕をあらぬ方向へと暴走させる。
勿論、迷走しているなどとは本人は一切気付かない。
もしこの場に経験者、流星や雪星が居たならば、遠回しにでもそのような重要な事は明花と二人で話し合い決める事だと助言をしてくれたはずであるが、叶わぬ話をするのは止そう。
「最初は行われる予測回数に対して実際最後まで実現可能な夜を三分の一に設定して……僕の技術については仮に五項目十段階で評価、項目毎の比重も変えるか……総合値を……となると基本の成長曲線は……明花の体調の周期と……季節による病の罹患率の変動を加味して……」
雨燕の筆は滑らかに紙の上を踊る。冷静に考えれば無意味で傲慢な紙の山が量産されていく。
暫くして。
虚無にも等しい計画書が終わりの一文へと差し掛かり、明花が三度目の寝返りを打ってようやく、雨燕は己の傲慢さに気付いたのであった。