かんざしには嘘を、××と君には×情を
桃華遊心堂へ訪れてから三日後。
あらかた各自の私物を運び込み、明花(ミンファ)と雨燕(ユーイェン)は無事陳家の離れにて同居することとなった。
ちなみに一番憂慮していた雨燕の妹李圓(リィエン)については、本人に確認したところ全く問題ないとの答えが返ってきた。
嬉しそうな表情や言葉の端々から彼女自身の婚姻も遠くないのだろう。幼い頃から見ていた者としても大変嬉しい限りである。
対して芳明(ファンミン)の心中は未だ穏やかとは言えないのか、今も慰めと激励を求めて雨燕にべったりとひっついている。厳しい姉よりも優しくも聡い義兄に教えを請うた方が良いと判断したところについては、喜んで良いのか、雨燕に申し訳ないと思えば良いのか、明花は複雑な心境である。
こうして片付けに挨拶、父との打ち合わせとに奔走し、芳明への教育に頭を悩ませているうちに、太陽は西へと沈んでしまった。
準備の合間に例の書物を再度読み込み、呪詛や仙術の理(ことわり)や応用論、人体学も今一度触れておこう……などと考えていた少し前の自分はなんと無計画だったのだろうかと、新しい架子床にぐったりと倒れ伏した明花は己を省みる。
雨燕健康増進計画は前途多難。思えばここ数日はろくに会話も交わせていない。
(雨燕とやっとゆっくりお話できるんだ……今日からは、ずっと……)
頬がほのかに熱くなる。
赤の催事に合わせて婚約や結納、互いの両親への挨拶などが行われるように、深臙国では婚礼の儀を執り行う時期も白の催事――龍神祭から半年後、対となる宝玉祭が執り行われる時期――と決まっている。
宮殿前の広場では共同婚礼の儀も盛んに執り行われ、龍神や八神の誰かが新しい花嫁を迎える時に限っては宝玉祭の目玉にもなっていた。
祭事をまとめて行うことにより、新郎新婦両家の格差を緩和し、諸経費を削減、他国からの集客を狙うなどの経済効果をも見込んでいる。
また神々の特殊な事情や深淵国独自の跡取り問題で辛酸を舐めてきた貴族にとっては、婚姻時期の限定は非常に都合が良いらしい。
建前の下、事前の同居をして実質上の婚姻関係を開始することができるという形は、一般人にはそうそう縁のない幾つもの複雑な事情に適しているのだという。
乙女の憧れのような情緒的な婚姻手順に、一見融通が利き難くも見える婚姻時期の限定。それらは全て実利主義の深臙だからこそ残った風習とも言えよう。
兎に角にも、今日から明花は雨燕と暮らし始める。
つまるところ今晩、夫婦となった二人は初めて床を共にするのだ。神通力の安定を図るための性的な行為を提案するには絶好の機会である。
疲れや恐れを理由に及び腰になっている場合では無い。
明花は起き上がり、真新しい引き出しを開けた。
桃華遊心堂の特性香油と、どこかが特別な筒と袋、説明書と珊瑚から貸してもらった書物。準備はバッチリだ。
そろそろ芳明も帰る頃だろう。
雨燕も明花も入浴は既に終えている。
あとはさりげなく話を切り出し、雨燕の要望と体調を聴取、問題がないようならば頃合いを見て道具を持ち、店主の指導を参考に床へ誘い、一晩かけて快楽を引き出す。計画は(あくまで机上では)完璧なように思えた。
「体調を聞いて、その前に今日のお礼と……芳明の事や結婚のお礼もちゃんと伝えて」
熱くなり始める頬を誤魔化すように、明花は指折り事前確認を始める。
「それから自然に……えっと、待って。始める前に主導権を握りたいか、握られたいかを直接聞かずに確かめて、今日どこまでしたいかの要望は聞いて。あれ、そのま……っ」
扉を叩く音がその場に響いた。明花の肩が大きく揺れる。
「明花、良い?」
「うん、ええ! はい」
はやる胸を抑えながら、明花は扉を開けた。
「ええと、ごめんね……」
「ううん、全然! どうぞどうぞ」
互いに要領を得ぬやり取りをしながら二人は歩みを進める。
心なしか雨燕の頬は赤く、視線も覚束無いように見えた。酒がまわってきてしまったのか歩き方もぎこちなく、明花に負けず劣らず挙動は不審だ。
「ゆ、雨燕。ありがとうね。芳明のこととか」
「ああ、うん。部屋の前までだけど送ってきたよ」
「えっ? ありがとう。そんなに遅くないし、庭だから今度からは大丈夫だよ。ごめんね、雨燕」
「そんな、大したことないから大丈夫だよ。それより良かったよ。芳明は賢い子だから、答えは既に出ていたんだろうね――っまっ、待って明花?!」
不意に雨燕に腕を取られ、ピタリと明花は歩みを止める。目の前には二人が並んで寝ても余るほどの大きな架子床(ベッド)。もしやこれはと振り向いた先にいた真っ赤な雨燕に、明花の頬もあっという間に朱に染まってしまう。
(緊張しすぎて私! これは誤解っ……じゃない、順番を!)
「あの、っ雨燕!」
混乱したまま、明花は雨燕の手を取る。
美しくも骨ばった手は明花のそれよりも大きい。温和で細身、可憐な衣装に身を包み、化粧を施して微笑めば、高身長の乙女とも紛う雨燕だが、その手は男性のものにほかならない。
明花はぎゅっと雨燕の手を両の手で包むと、戸惑う漆黒色の瞳を見つめた。
「疲れてない? 体調、大丈夫?」
「う、うん。大丈夫だよ? 明花」
「良かった! あのっ私、雨燕と一緒にいると嬉しくて、心が温かくなると言うか、安心するんだ」
「っ……ありがとう。僕も」
一瞬の息を飲むような音の後で、雨燕は蕩けるような笑みを零す。
一方、明花は必死に先日の記憶を辿り、店主の助言と指南書の内容を実現すべく両手にさらに力を込めた。
「すごくほっとして、また明日も頑張ろうと思える。元気が出る……なのに胸も熱くなって、たまに大変動きが活発になると言いますか、こう本当にですね、熱い闘志が伝わってくるような、その」
想いを伝えるだけであるのに、これがどうしてなかなか難しい。ふと雨燕との慣れぬ接触に意識を向ければ、自身の手汗がひどい事に明花は気付いた。
その上、雨燕の指先は白い。無意識に握りしめたばかりに血の気を失ってしまっていたのだ。
「ごっごめん、雨燕」
明花は慌てて手を離すと、後ろへと数歩飛び退いた。勢い余って壁へと激突しかけるが、寸でのところで雨燕の腕に助けられる。
「大丈夫?」
「ありがとう雨燕……」
既視感を感じる間もなく、近づく雨燕の相貌に心臓が跳ねた。気付けば自然と布団の上でゆるく抱き合う形となっている。
いよいよ明花の脳内は混乱を極めてきた。
あわや己の怪力で婚約者の指を握り潰し、先日の書物の珍事録との欄に新たな記載が加わるところであったと青ざめれば良いのか。それとも一大事を免れたとほっとすれば良いのか。はたまた店主や指南書の一例のように明花を慮り、支えてくれている雨燕の袖を引き、強引にでも誘った方が良いのか。
緊張と羞恥で思考と感情はまとまらず。明花は完全に冷静さを失っていた。よって。
「雨燕、あのね。良い道具が手に入ったんだ!」
明花はひと足もふた足も飛び超え、赤面必須の本題へと触れてしまう。
「良い道具?」
明花は首肯。すぐ脇の物入れへと手をかけると道具諸々、それも見せる予定ではなかったものまでをも取り出して、架子床の上へと広げ始めてしまった。
「最近忙しかったし、雨燕も色々無理してるんじゃないかと思って。早く元気になれるように……」
「は、早く元気に?!」
「うん。神通力の安定による健康促進が期待できると評判で、この筒とか、これも」
耳や項まで赤く染まった雨燕の目の前で、明花は購入したばかりのそれの蓋を取る。
各々、中に鎮座するは置物にも似た筒状の淫具と紫色の布袋。
「こ、これ…………」
雨燕はとうとう鳩のように瞳を丸くさせると、絶句した。
「えっとこれは雨燕のせ、性器にね……」
「っわ、わわわわかる、わかるよ! 何する物かはわかる! 大丈夫だよ明花」
「え? そうなんだ? 良かった……?」
既知であったとは意外だが、言い難い用具の説明をせずに済んだことは幸運だ。
このまま一気に畳み掛ければ羞恥心もいくらかは薄れるかもしれない……との根拠のない確信を胸に、明花は己が混乱しかけていることを自覚しないまま身を乗り出した。
「少しだけれど私も勉強してみたんだ。それで改めて、雨燕には今日から毎日気持ち良く過ごして欲しいなって。よっ夜もできれば! でもほらあの、ぼ、ぼぼ房中術は抵抗があるかもしれないし、技術と効果の均衡や初心者だということを鑑みると、易しいところから初めてみようかと思いまし……っ?!」
不意に手を引かれ、明花と雨燕との距離が縮まる。ふわりと鼻に届いた温かな香りは雨燕が身につけている香だろうか。
そのまま真綿で包むように柔く抱き締められ、大きく鼓動が跳ねた。
「ゆ、雨燕……」
「技術とか効果とか……僕は明花と……な、仲良くできれば……十分だよ……」
切なげな声音は明花との純粋な交流を望んでいる。微かに伝わる鼓動は、明花の鼓動と同じくらい速かった。
「……へへ、そっかぁ。実は私も……」
抱擁は温かく、心からの言葉に不思議と気負いはなくなる。
明花は思い切って雨燕の背へ手を伸ばすと、ぎゅぅと抱き締め返した。
びくりと雨燕の肩が揺れ、薄布越しに触れ合った筈の体はまた少しだけ離れてしまうが、その理由が明花への嫌悪でないことは解かれぬ抱擁や彼の真っ赤な耳が如実に語っている。
(雨燕も恥ずかしいんだ……そうだよね。仲良くできれば十分。もし雨燕が印の存在を知らないのなら、同居一日目でいきなりこんな道具を出されて驚かないはずがない……私、早まりすぎたなぁ)
「大好き……雨燕」
「僕も……愛してます、明花」
くすぐったくも心地好い雨燕の言葉は明花の頬を緩ませる。
房中術だけでなく、道具の使用まで望まぬ展開は正直予想外ではあったが、書物の一用例と現実が必ずしも重なるとも限らない。
身体的な差異や体内に流れる気の違いから男性の方が直接的な性的接触に強い快楽を感じやすい、性的な欲求の充足は効果的であるとの一般論はあるとして、望まぬ行為を強いるのは逆効果だろう。神通力の安定という目的を逸脱した行為となっては意味がない。
なにより、明花自身の気も進まない。
(まずは健全で健康的な方法で呪詛に対抗できるように。房……夜の色々も効果はあるだろうから、そっちにも興味を持って貰えるようにこれから工夫しよう。そうだ、せっかくだから今、色々聞いてみようかな? 後々役立つかも……!)
固い決意を胸に明花は抱擁を解くと、未だ緊張からか同じように身を強ばらせている雨燕の両袖を掴んだ。
「私も雨燕と仲良く暮らしていきたい。でもまた私、早とちりしたり勘違いしてしまうかもしれない。……だから教えて! 雨燕が嫌な事もしたいこと事も、これから毎日でも遠慮なく!」
「っ⁈」
雨燕が息を詰めた理由などつゆ知らず。自身の誤謬もつゆ知らず。明花は雨燕の手を取った。