かんざしには嘘を、××と君には×情を
「本当に良いの?」
暫しの沈黙の後、雨燕(ユーイェン)は顔を上げ、明花(ミンファ)の手をそっと握り返した。
遠慮がちな言葉とは裏腹に、漆黒の瞳の奥には仄かな熱が宿る。自らの発言に因があったのかもしれないと一瞬だけ迷ったが、すぐに明花は自意識過剰との答えに至った。
「もちろん! 希望にそえるかはその時によるけど……きちんと話し合うことで長く雨燕と仲良くできたら良いなぁ、なんて」
「明花」
甘やかな瞳が近付き、堪らなくなって瞳を瞑れば、頬へ柔らかな何かが触れる。
それが雨燕からの初めての口付けだと意識する間もなく、柔らかな感触は離れ、再び同じ場所へ。そのまま頬の熱ごと抱きすくめられ、気付けば明花は雨燕に覆い被さられる形で架子床に身を沈めていた。
「ゆ、雨燕……?!」
瞬く明花を切なげな瞳が見つめる。上気した頬と悩ましげな吐息が、あの夜の雨燕の呻き混じりの荒い呼吸と重なる。
「明花と繋がりたい。できるならば今すぐにでも深く愛し合って、君を独り占めしたい」
「えっ……あ、あの……雨燕さえ良ければ……どうぞ」
「っ……?!」
自分も同じ気持ちだと、雨燕を望んで両手を広げて促したはずが、何故か返ってきたのは息を飲む音。少し前の噂に聞く恋愛小説に出てくるような艶めいた雨燕はどこへやら。慌てたような衣擦れの音が続き、硬い何かがほんの一瞬だけ明花の腿に当たる。
「ま、待って、明花。いや、あのね。そうは思ってるのだけど、今すぐは……か、寛容である事は明花の美点ではあるし、僕もものすごく嬉しい。叶うなら今すぐにでも……でも今はまだ、全てを行うわけにはいかないので……」
片袖で顔の大半を隠している為、雨燕の表情は読めない。しかし真っ赤な耳や下がった太眉、泣きそうな瞳は恥ずかしくて堪らないと物語っていた。
(もしかして雨燕、私が勢い込んで誘ったりなんかしたから頑張ろうとしてくれた……?)
言葉に尽くせぬ温かな気持ちが明花の胸を満たす。同時に少しだけ、無理強いをさせてしまったかもしれないとの罪悪感も過ぎった。
「大丈夫、雨燕! ごめんね。今度雨燕が挑戦したくなったら言って。私、雨燕がしたいこと、できれば全部叶えてあげたいんだ」
「え……ぜ、全部……?! いやあの、それは……全部はさすがに……」
「じゃあ私も挑戦したいと思った時には」
照れ臭い気持ちを誤魔化すように明花は潤む瞳を見つめ、拳を作り意気込む。彼の望みを叶えたい――それは飾らぬ明花の本心であり、雨燕への厚い信頼からなるものだ。
「明花……ありがとう。もう一度、抱き締めても良い?」
答えの代わりに両手を広げて微笑めば、雨燕もまた明花に全身で応えてくれる。艶めいた吐息が耳元をかすり、再び首筋に彼の唇が触れた。えも言われぬ甘美な刺激に肩を震わせたのも束の間。雨燕のそれは離れてしまう。
「不甲斐ない僕だけれども、式をあげたら……契って欲しい」
「うん。待ってる」
「ありがとう。その時には」
一息、雨燕から熱い吐息が零れて。
「もっとたくさん抱き締めて……欲望のままに君を求めて、おかしな事まで……舐めたり、僕たちの子を授かるまで離せないかもしれないのだけれど……」
衝撃的な言葉が飛び出る。
「?! そっ、それも良いよ。雨燕なら」
熱い頬のまま明花がにへらと笑うと、黒曜石のような瞳が嬉しそうに細まった。
「そうだ……」
ふと、雨燕は何かを思い出しかのように立ち上がると「ちょっと待ってて」との言葉を置いて隣室へと消えた。
(び、びっくりした……。ところでなんだろう……?)
間もなくして、彼は朱塗りの小箱を手にして戻ると明花の目の前へと腰掛ける。
「……良かったら」
艶やかな漆塗りの小箱の中にあったのは精緻な作りのかんざし。
決して豪奢ではないが、かんざし本体の流れるような曲線美と繊細な金細工からは職人の腕の良さが感じられる。
透かしの合間にちりばめられた石は蛋白石だろう。淡い灯火に照らされて乳白色の石は七色の光を宿している。また、柔らかな若草と黒のさがりは翡翠製か。柔らかな色合いの玉たちは硬質なかんざしに温もりを与えていた。
「綺麗…………」
思わず明花はため息を漏らす。
「雨燕、ありがとう」
「……良かった。ほんの少しだけれど加護の術も施してあるから防犯にもなると思う」
雨燕はほっとしたように微笑むと、かんざしをそっと手に取り、結い上げた明花の髪へと差した。
「すごく似合ってる……と思う……可愛い……」
慌てたように視線を逸らす雨燕の頬は薄らと朱に染まっている。そのあえて客観的な断定を避けるような物言いと挙動不審にも見える反応は、控えめな彼が明花を想って懸命に選んでくれたのたと暗に示していた。
羞恥は伝播するのか。再び明花の頬にじわりと熱が灯り、心音は早くなっていく。
彼からの贈り物は初めてではない。美しい木の実に始まり、菓子に人形、置物、筆、果てには便利な家事用具等々。しかしそれらは全て明花が欲した物や知人への土産、家族と共に貰ったものだ。
(こんな恋人に渡すようなもの……って、恋人じゃなくて婚約者で、もうそろそろ夫婦で、かんざしも式の前に渡されるから当り前なのだけれど……当り前なのだけれどっ……⁇⁈)
一時前まで睦事や共寝を挑まないかと持ちかけていた明花であるが、心構えの有無は大きい。
「……ありがとう。私も似合ってると……良いな……と……はい……明日から付けるね」
ようやく明花はそう答えたが、雨燕もまた、明花同様蚊の鳴くような声で「あぁ、うん」と曖昧な返答をするのみ。
道具を出して勢いに乗れた(?)と思いきや、やはり経験乏しい二人の夜は前途多難のようである。
(こ、このままかんざしをしまって横になっても良いもの……?! 婚約者として、呪詛を解く為にも何か……あっ、そうだ……)
脳裏に閃いたのは先日の雨燕の様子と珊瑚の言。明花は雨燕の両肩を掴んだ。
「雨燕! 雨燕はかんざし集めに興味ってある?!」
かんざしが呪詛に一役買っているのならば、詳細を押えておくに越したことはない。呪詛の効果を緩和させる方法や呪いを解く糸口になればと思ったのだ。
「え……? ないけれど……?」
「……えっと、ほら、かんざしや髪留めは美術品としての価値も高いと聞くし、老若男女心を奪われるものが……それに龍神様から賜った品は縁起物としても人気だとか!」
「うん……? そうだね。明花も好きなの?」
「えっと、そういうわけじゃないんだけど……」
装飾品以外の付加価値やそれらしい説を唱えれば、雨燕も申し出やすいかもしれないと睨んだからなのだが。むしろ言い出しにくくさせてしまったのか、思ったような反応はかえってこない。
(さすがに雨燕がこの間持ってたかんざしが……とは……)
故意ではないとは言え、盗み見は褒められた行為ではない。それにいくら疎い明花でも、あの行為が人に見られたくないものであり、雨燕にとって恐ろしく羞恥を煽られる話題であろう事は容易に想像できた。あの夜の一件には触れず、彼が所持するかんざしの情報を探るには――。
「あー……えーと、可愛いかんざし……をちょっと探していて、雨燕は良いお店を知ってるかなぁって」
嘘も方便、下手な鉄砲も数打てば当たり、千里の道も一歩からの精神で追い詰められた明花は作り話を口にした。
「そうだなぁ、僕はあまり詳しくないけれど……賢鹿府の向かいにあるお店はどうかな? このかんざしを買ったお店なんだ。品揃えも豊富で一点物の注文も承っているはずだよ」
下手な鉄砲が当たったか。思わぬ情報に雨燕の両肩を掴んでいた手に力が入る。
「それ、なんてお店?!」
「?! え、ええと『翠蘭記』というお店だよ。良かったら、週末にでも一緒に行こうか?」
にこにこと微笑む雨燕に一抹の罪悪感を抱きながらも、明花は首を横に振る。
「大丈夫、雨燕もいろいろと忙しいと思うし」
「まあ……でも、買い物に行く時間くらいなら休めるけれど?」
「えっと、友達に贈りたいの。だから雨燕と行くのはまた今度で」
「そうだったんだ! ご、ごめん」
無理に誘ってしまったと謝罪する雨燕に非はなく、罪悪感に胸は痛むが他にうまい言い訳も思いつかない。明花はこれ以上の誤魔化しは悪手と判断して、咄嗟に話題をもう一つの気掛かりへと移した。
「ところで雨燕、ちょっと他にも聞きたいことがあって」
「なに?」
「ええと……」
明花は言葉に迷う。
もう一つの気掛かりとは呪詛の際に負った印のことだ。
印の日々の変化の観察すれば、呪詛の進行具合や術者の意図を汲む手がかりになるかもしれない。そうでなくとも雨燕の変化と印の関連性を探れるだろうと踏んだのだ。
しかし『着物を脱いでくれませんか』――とは気安く言えない。この一言で事は済むと言えば済むかもしれないが、その分望まぬ誤解もされるだろう。
印を見たい。できればこれから毎日。
一方で存在に触れずに上半身を見たいと望む事は痴女のそれと近しくも見える。何か良い言い方はないものか。
(『雨燕の上半身が見たい』? ううん、これじゃあ益々変な人だ。『婚約者として健康管理の為に体を見ておきたい』? ううん……? 『襟に刺繍をしたくなったから脱いで欲しい』?……だめだめ、夜中に突然こんな事言い出したら、私が雨燕でも心配する……)
どう足掻いても脱衣を面と向かって頼む行為は誤解が生じそうだ。
「明花?」
「っ?! ええと! その、だからね胸の、きん、筋肉! そう、筋肉がみたくて!」
飛び出た言葉は戻らない。明花は慌てて瞬く雨燕に怪しまれぬよう、尤もらしい理由を探し始める。
「筋肉、興味深いよね。私なんか気持ち悪いくらい怪力だし、どことどこがどうなってるのかなとか。料理する時も鶏の胸肉の筋組織について、ちょうど良い刃物の角度と関係あるかなぁとか考えるよ! だからもし雨燕さえ良ければ、これを機に人間の胸の筋肉について学んで、これから先雨燕の服を見繕う時に利用したいなぁって。縫製に活かせば応用も効くし、胸筋の作りを理解することに意味はあるような、無いような」
尤もらしさはさておき、明花の熱意だけは伝わったのか。雨燕は婚約者の言葉を必死に咀嚼しようと努めてくれたのだろう。
「……えっと、人体に興味があるからこの機会に実物を観察したい、採寸もしてみたい……の?」
戸惑いながらも明花の話を受け止めようとしてくれる。
「そ、そう‼ そんな感じ! 人体の作りを学べば仙術にも活かせるし、雨燕の服を作る時にも衿の長さや色を決めるのに肌の感じを知っておくのも大切だよなぁって。少しで良いんだ!」
この際雨燕を裸にできれば問題はない。言葉の通り少しで良い。要は毎日印の様子を、雨燕に悟られることなく観察できれば良いのである。
「……わかった」
「ありがとう!」
少しの間を置いて。快諾してくれた雨燕に礼を告げ、詳細な採寸は明日にでもと言い添えてから、明花は視線を布団へと落とした。そして、己の発言の不用意さに今更になって思い当たる。
(……こんな事頼んで……良かったのかな……?!)
衣擦れの音が心音を早めて、俯く明花の頭上できっちりと合わさっていた着物の衿がはだけ、艶めかしい素肌が顕になっていく。雨燕の視線は布団を彷徨い、再び仄かな桜色に染まった頬には乱れた髪が一筋の影を落としていた。
(私、もしかしてとんでもない事を……)
彼の体は明花の想像よりもずっと鍛えられていた。可憐な衣装に身を包み、化粧を施して微笑めば、高身長の乙女と紛うかもしれないとの思いは未だ残るとして。しなやかで引き締まった体は男性のもの。
鍛錬で上半身を晒すのとは全く異なる。純朴な雨燕に大変いけないことを強要させてしまっている――そう思わずにはいられない。
「……なにか、ひかえておかなくても大丈夫?」
「えっ?! あ、えっとそうだね」
慌てて架子床脇の机から筆を取り、明花はさもありなんと言わんばかりに頷きながら記していく。
(なにか、なにか変化を印さなきゃ……ええと、梅の花片のように見えたけれど改めて見ると……)
顔が熱い。雨燕の姿をじっくり見るなど、ましてや胸の印を詳細に観察することは容易でない。
極々偶に、視界の端に朱の印を映すのがやっとである。
観察と簡単な採寸と称して記した文字は半紙を埋めるが、中身は明花の動揺を表す以外はなんの意味ももたらさぬものとなった。
「色々ありがとう。おやすみ、雨燕」
「こちらこそ……おやすみ」
各々髪飾りや髪を結わえていた布を解き、しかし互いにきっちりと着物を身につけながら、ふかふかの布団へと滑り込む。
すぐ傍で横たわる雨燕の顔が見られない。明花は寝やすい向きがあると言い訳し、くるりと背を向ける。
(変なことさせちゃった……早くもっと無理なく印だけを見られる方法を考えなきゃ。かんざしの出処についても……)
やるべき事は無限にあると言い聞かせ、明花は目を瞑り丸くなった。
火照る体も早鐘を打つ心臓も、背中に感じる温もりも、雨燕も自分と同様なのではないかとの妄想も。きっと自意識過剰の成せる技なのだろう。
(雨燕の具合が早く良くなりますように。雨燕がいつまでも元気で幸せでいますように……)
だんだんと眠りの世界へと誘われる中で、明花は雨燕との思い出をなぞり始めた。
背後から規則正しい健やかな寝息が聞こえ始めたのを確認して、雨燕はそっと布団の端へと移動した。
添い寝と言うには遠い距離をさらに広げたのは、間違いを起こすわけにはいかないからだ。
少しならばと迷いを起こせば雨燕の望みは一生叶わなくなる。
明花との甘い触れ合いに反応してしまった下腹を宥める為にも、雨燕は建設的で健全な方向へ意識を移そうと努めた。
(少し前から明花の様子がおかしかったから心配だったけれど……さっきのあの、色々、色々と……! あんなに一生懸命用意してくれるなんて。僕とのことで困らせてしまったのかもしれないと思っていたのに……)
しかし努力虚しく、意識は再び先の明花との魅力的な時間へと戻ってしまう。
(色々と、準備や最後のあれも、明花なりに誘おうとしてくれたのか……?! いやいや、あれは単純に僕の為に着物を縫おうと試行錯誤を試みた末の言葉や行動。正気を取り戻せ、呂雨燕! でも……それを含めても一連の明花の反応はもしかしてもしかしなくとも結婚を前向きに捉えてくれている、夜も求めてくれていると自惚れて良いような……?!)
一気に膨れ上がった期待は、すぐに雨燕自らの手によって説き伏せられた。
ここで気を緩めて良いことはない。
自惚れが事実であろうとなかろうと、事実だと認識した途端雨燕の行動は合理性や建前を得てしまうだろう。
理屈をつけるのは容易だ。『彼女も同じ気持ちだから』『婚約者として、夫としての責務を果たすべきである』『大切な人を不安にさせてはならない』『多少ならば大丈夫だろう』などなど。いくらでも考えられる。
強欲だとも傲慢だとも言える望みを叶える方法は、少しの油断が命取りになりかねない。それは常に肝に銘じておかねばならないことだ。
(慎重に行動しなければならないのに、今日はとんでもないことをしてしまった……)
万全の準備をし、再三戒めを己に言い聞かせて寝室へ入ったにも関わらず、雨燕は呆気なく欲望に屈した。
彼女の手を握り、抱き締め、果てには口付て懇願までしたのだ。なんと自分の意志は弱いのだろうか。その上、自身を必死に律したはずが肝心なところでかんざしが似合うなどとも口走ってしまった。
若草色と黒色、二色の翡翠が雨燕を表すような色合いのかんざしが似合うと。
(気持ち悪かったかもしれない……いいや、あの明花がそんな風に思うとは思えないけれど……事実は事実として受け止めて次に活かさないと。……ああ、僕はなんて自制の効かない男なんだろう。明日はもう一枚羽織って……印も弱いのかもしれない。或いは……)
己の胸に手を当て、雨燕は重い息を吐く。
おそらく『転じて換えず、命を以て登るは転換羽化』――身の内に宿ると告げられたモノの目覚めは近い。皮肉にも一番否定したい自身の体がそう訴えているのだ。
一個人が足掻いても天のさだめを覆すことはできない……のかは正直雨燕にはわからない。
しかし一度は受け入れたさだめを変えようと足掻く自由は残されている。
否、そう信じて、この先も諦めきれずに模索し続けるのだろう。その自由が傲慢と己を偽る詭弁と同等だと自覚しながらも。
(僕が未熟なせいで……何も言えずに迷惑ばかりかけてごめん、明花……)
印の存在もかんざしに秘め続けた想いも、隠した独占欲も彼女に知られるわけにはいかない。
罪の意識に苛まれど、ひとたび湧き上がった欲は捨てきれないのか。下腹の熱は未だ冷めやらず、屹立した己を諌める為に雨燕はそっと布団を抜け出した。